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宗教について②

救いに関するJwの問題点のひとつは、ひとたび「組織の証人」になったら、自分と他者の救いのため業(伝道)を行わなければならない。更に、たとえパプテスマを受けても、生ぬるい信仰では是認されない、と個々の信仰に圧力がかかり、自己決定という自由は本質奪われ、個人への尊厳や愛は条件付きのものとなる。

これらの事は多くの場合聖書から、また組織の出版物から諭されるため、誠実に正直に自己吟味するほど、多くの抱えきれない重荷を負う羽目になる。誤った励ましは会衆内の指導者や
"活発"な信者の口を通しても常に語られる。


結果、取り決めという「会衆の律法」に従順にさせようという人間的な支配が人を苦しめるのです。神は愛、口ではいいます。頭では理解している。努力する人もいます。けれど、律法下に置かれたユダヤ人達と同様、幾ら業を行おうと頑張っても自分に限界がある事、正しく生きよう願ってもキリストや使徒達の模範に倣うことは元々不可能なのです。結局のところ、それはキリス
トの贖いを否定するような教理なのです。
(旧約の預言は約束されたメシアの到来に焦点を当て書かれた。
そしてキリストの贖いにより、律法「キリストに至る養育係」下に
いなかったすべての人類にも救済の道が
備えられた。このあたりまでは、Jwと大体同じ考えです)



信仰による本当の安らぎや自己肯定感が得られないために、求めれば求めるほど苦しくなる・・救われない惨めな自分を認めざるを得なくなる。宗教は本来、自分をよい意味で高め、健全な自尊心と神への信頼感で人を幸福に包むもののはずなのに。
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by hanamizukidayo | 2007-12-12 11:02 | 宗教