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遠くから来た人々

 遅くなりましたが、今日はクリスマス礼拝で感動したメッセージを残したいと思います。
と言いながら、案の定記憶が飛んでしまった感がありますので、聖句を見て思い
起こせると良いのですが・・

扱われた聖句は、マタイの福音書2:1~2:12でした。
 
 1~2: イエスが、ヘロデ王の時代に、ユダヤのベツレヘムでお生まれになった時、見よ、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、こう言った。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか。私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」


 クリスマスに先立って公開された映画「マリア」を観た人なら、情景がリアルに浮かぶことでしょう。救い主の誕生にまつわるエピソードの中で、マリアとヨセフに並び、私は東方の博士たちがストーリーを盛り立てていたという印象を強く感じました。ですから、「遠くから来た人々」つまり「東方の博士たち」に焦点を合わせたメッセージを聴くとは、偶然とは思えない驚きと喜びでした。前にも書きましたが、入り口で躊躇し、散々迷い、何とか勇気を出して入った教会でした。現実に教会の前に立った時、突然元JWという後ろめたさのような気持ちが生じ、敷居の高い場所に思えてしまったのです。


 9: 彼らは王の言ったことを聞いて出かけた。すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。
 「星」が先導した。JWの聖書物語にもこの話が載っています。子供たちに読んで聞かせたあの黄色い表紙の「聖書ものがたり」です。砂漠を旅する賢人たちの真上にひときわ輝く星。彼らが占星術者だったこと、またヘロデの手先として幼子を見つけるように遣わされた者たちだったので、「星」は サタン だという話だったと思います。しかし、そうではなかったのです。キリストの降誕を無視し、それにまつわる話まで曲解させようとするJW独自の教えだったのです。最愛の独り子を人類のメシアとして地上に贈ってくださった神への感謝を
心から表すべき特別の日がクリスマスなのに、いろいろな屁理屈を付けて実際はキリストを軽んじる姿勢が見えるひとつの例だと思います

 「マリア」で観た主の降誕の瞬間の映像は、神聖な雰囲気に包まれたものでした。星、闇を照らす輝く光が、羊飼いたちを、博士たちを、生まれたばかりのキリストへ誘う場面に深く感動しました(これ以上書くと、まだ見ていない人に申し訳ないのでストップしますね)
メッセージに戻って、牧師さんは誰よりも真っ先にイエス様を見つけたのはここに登場した博士たちだったことを指摘されました。当時のユダヤ人から見下されていた「異国の人々」であったというのです。
はるばると砂漠を越えて来たのはアッシリアかバビロンもしくはペルシャ人です。


 11:そしてその家に入って、母マリアとともにおられる幼子を見、ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げた。
捧げた宝物とは、彼らの商売道具だった。それで彼らにとって貴重であると同時に、すべてでもあったわけです。


 12:それから、夢でヘロデのところへ戻るなという戒めを受けたので、
      
 別の道から自分の国へ帰って行った。 

来た時とは異なる、別の道から帰った。それは彼らの生き方(人生)が変った事を意味します。
人生観が変った、思考法が変ったという次元に止まらない変化、それが福音の喜び、
救いを体現するという事では。 クリスマスの箇所で喜びの場面は案外少なくマタイ福音書では
 「その星を見て、この上もなく喜んだ」博士たちに言及しているのみ、だそうです。



 話は前後しますがこの教会の牧師さんは重度の脳性麻痺のために車椅子に乗って、構音(言語)障害もある方でした。しかし聞きづらさは少しも感じませんでした。若い頃は車の運転もされていたそうですが、自分の教会を立ち上げる話が決まったその日に交通事故を起こし、同乗していた最愛の奥さまを失ってしまったという辛い経験を明かして下さいました。

 「ですから、(説教する)資格はない者なのです。・・・・・
私たちは誰でも人生の中で、失敗したり、立ち上がる事の出来ない辛さを持っている。しかしそれをイエス様が変えて下さり、許してくださり、もう一度立ち上がる勇気を与えてくださいます」


 私は今、クリスマスをきっかけに教会に導かれたことを感謝しています。
わずか5,6人しかいない小さな小さな教会に導かれたのも神様のご配慮で、
大勢の人と会うのを苦手とする私の思いをよく分かって備えて下さったよう
な気がします。
静かで暖かい祈りの場所、自分の家に帰ってきたような安らぎを感じました。

燭火礼拝でキャンドルサービスを受け、聖書朗読を聴いていたら、
じーんと胸が熱くなって涙が止まりませんでした。
恥ずかしかったので周りの人に知られないように必死でしたけど。
どうして勝手に出るの、涙。 しかし鳥肌が立つほど聖霊を感じました。

エホバ時代はこのような人達を何も知らずに間違った宗派だとか、
大いなるバビロンだとか思い込んでいたことを心から恥じます。
申し訳なかったと思います。

いろいろな考え方はあると思いますが、信仰とはそれぞれ神と個人の間に存在するものだと思います。そして、ふたりか三人か人が集まっている所にイエス様が共にいて下さるのだから組織や教会がどうしても不可欠とは思いません。しかしともすれば安易な道へ、また自分の好む方向へばかり考えたがる弱さを越えていけるよう、今一度教会の学びを通して神とイエス様に私の歩みをしっかりと支えていただきたいと願っています。そうできますように。
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by hanamizukidayo | 2008-01-03 06:06 | 宗教