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後で分かるようになる

主イエスが愛の人であるならば、弟子の一人が罪の苦悩に抗しきれず裏切りに落ちて行く、その有様を静観するのではなく、なぜ彼を守り導かれなかったのか、そもそも神の御子がこの世に来られたのは、ユダに代表される罪に苦悩する人を助け出すためではなかったのか、そのような問いを抱くのは不遜に当たるのでしょうか。 ユダとて単に金(マタイ26:15)や畑が欲しくて(使徒1:18)、うれしくて、楽しくて、裏切ったのではないはずです。 苦悩しつつ後悔しつつ行くべき所へ向ったことでしょう。
 これまで繰返し「時はまだ来ていない」(ヨハネ2:4,7:6,8:20)と言われたのですが、ここに至って「この世から父のもとへ移る御自分の時が来た」(13:1)ことを告げます。 主イエスが栄光をお受けになる時、すなわち十字架の死が切迫しているのです(12:23,17:1)。 

 過越祭の前、最後の晩餐の席に着く時に、主イエスは弟子たちの足を洗いました。
 旧約の昔から、食事の前や外出から帰った時、客として迎え入れられた場合などには、自分の足を洗うのが定めでした(創世記18:4, 19:2,24:32,士師19:21)。 しかし他者に自分の足を洗わせることもありました。 この場合、洗足は奴隷の務めでした(サムエル上 25:41)。
 主イエスは奴隷と変わらない姿で、僕となって身を屈め、弟子たちの足を洗い始めたのです。 
ペトロは洗足の訳をさっぱり理解できぬまま「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」 「わたしの足など、決して洗わないでください」と辞退しました。 彼の狼狽振りが伝わってきます。 それに対する主イエスの諭しは「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」ということでした。 
 
 師が弟子たちの足を洗う行為は、単に謙遜な生き方を教えるためではないでしょう。 この後すぐに起こるご自分の十字架と死に密接にかかわっていることは確かです。 父のもとに移る時が来たことを悟ったがゆえの行為でした。
 ペトロと他の弟子たちには、洗足もその後の晩餐で割かれたパンとぶどう酒の意味も、分からないままでした。 御子イエス自らが贖罪の小羊となって十字架に付けられるということについてはなおさらです。 わたしたちは教会に集い、聖書を繰返し読み聞きしているので、この後の十字架や復活の展開を先取りできますが、もしこのわたしも洗足の場に、弟子の一人に加えられていたとするならば、ペトロと同じように勿体ない、畏れ多いことだと辞退したに違いありません。
 事柄は弟子たちに理解されぬままでした。 しかし弟子たちの理解度に並行して、神による救いの計画が進んだり止まったりするのではありません。
 わたしたちは信仰者として生きていながら、自分自身の人生においても、うれしいことも悲しいことも、出会いや離別、罹病や事故など、なぜそれらが自分に降りかかるのか理由が分からないことが多いのです。 理解できないままで不条理を経験せねばなりません。 理解できぬからといって時間は止まってくれず、日々次々に良いことも悪いことも、起こります。  
 弟子たちが理解できぬままで、しかし天の父の側では救いの御業が着実に進められて行きます。 「今は分からないでも、後で、分かる」(13:7)それで良いのです。 後になれば「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(14:26)からです。

http://www.eonet.ne.jp/~comet/index.zen.2007.03.htm



上の記事は、最近読んでいる教会サイトのメッセージの一こまですが、強く心に響くものがあります。どうしてあのような宗教を「選び」だらだらと貴重な時間を費やしたのか、どうして他の人達まで巻き込んでしかもそれが最善の生き方だと伝道して回ったのか。心底悔やみますが、自己弁明や自己否定ではなくマイナスの思考パターンを変えていくには霊的に健全な思考で聖書を捉えなおすことが本当の癒しだとつくづく思うこの頃です。
愚かさに悩み苦しんだとしても、必ず「後で分かるようになる」と仰る主イエスの平安を待ち望みます。
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by hanamizukidayo | 2008-01-12 09:01 | 宗教