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「いばら」とは

クリスマス以来、日曜毎の教会礼拝に通うようになりました。
牧師さんもその奥さまも、車椅子の生活を余儀なくされている不自由な御身体
にも関わらず、
毎週の礼拝室を整え、新年礼拝日なら新年らしい雰囲気の
お花を活けて迎えて下さり、本当に心が和みます。

今週は入った途端、思わず目を見張ってしまいました。先週、心ばかりの感謝の気持ちで
バラの花束を持参したのですが、もう枯れただろうと思っていたのに、奥さまが添えて下
さった白い桜と、色鮮やかなピンクのバラが絶妙のコンビネーションで飾られていたのです。
年をとっても身体は不自由でも、神様への感謝やもてなしの美しい心遣いを感じて
見惚れてしまいました。

教会では一緒に昼食を摂ります。お手伝いしたいと思い、早目に家を出ましたが、
着いた時にはもう全部終わってしまっていました。「食事をどうぞ」と誘われても、
新参者なのでちょっとそこまでは・・と、これまで遠慮していましたが、今週は一緒に
戴きました。牧師さん夫婦と二人の教会員。集会の人数はささやかですが、牧師さんの
お話は毎回感動の連続です。


【種を蒔く人」のたとえ】 走り書きでメモしましたがニュアンスの違いもあるかも
                しれませんので悪しからず。

岩地やいばらに蒔かれた種が根を張らなかったり、誘惑や患難で成長が止まって
枯れるのは「伝道の失敗」と言う人もいる。神さまからの賜物持つ人間にイエス様が
「人格の感化を」と言われたのではない。「私に従っていきなさい」と言いながら、ご自分の人格
の感化で人を救おうとはされなかった。ある立派な牧師がいて、その教会が発展する
ことは良いことであり、その牧師に感化されるのも良いことではある。しかし、牧師信仰
となると、その人の信仰はどうなるかということを考えなければならない。

感化されることには良い点と悪い点があり、自分の個性が押しつぶさるような圧迫感を
感じることがある。しかし、イエス様は立派な人格者であ
ったが、み言葉で人を導いて下さった。み言葉であった。「私へ」の感化ではなかった。
      *だから聞き方に注意を払いなさい(20節)


いばらは低木や弱い植物を覆い、保護する働きをみせかけているが、
本当は弱い植物を締め付け弱らせる。

    *導かれる側の主体性をイエスさまは大切にされる。

伝道の失敗は神さまの失敗ではなく、み言葉を持ち去っていく悪魔による(12節)
耕やされるのは神さまである。

 
  
いばらの地とは聞いた人、つまりみ言葉を受ける側の心の問題だと決め付ける一方的な
説教ではなくて、み言葉を「主体的に聞きなさい」というメッセージでした。
神さまに耕されたいという思いに満たされました。感謝します。

補足予定
「種」について追記を予定しています。
  
 
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by hanamizukidayo | 2008-01-15 15:51 | 宗教