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三位一体(ソース不明)  <記事引用>

「三位一体」という言葉をときどき聞くことがある。聖書のどこに書かれているのかと言えば、それは、文字通りには書かれていない。しかし、「奥義」と言って、書かれていない教理があるという。つまりそれは、間接的に書かれていて、そのように推測されるのだ。三位一体は、この奥義に含まれる。
 例えば、マタイの福音書28章19節には、「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ」とあり、またヨハネの手紙第一の5章には、証しをするものが三つあり、それらが聖霊と水と血であり、これら三つのものは一致すると書かれている。
 しかし奥義と言えども、三位一体は、決して突飛な考えではない。それは、オーソドックスな信仰から、聖書に従って自然に考察することにより帰結する面もある。まず聖書によれば、父なる神と子なるキリストは、二つでありながら一つであり、同等の神であることが読みとれる。父なる神は、御子にすべてを与えられたし、御子ご自身も私はすべての権威を授けられたと言っている。しかし彼はまた、私は父によらなければ、何事も成し得ないと言われた。このように父と子は一体なのである。
 それでは、聖霊についてはどうなのか。第一に、主イエスは、「私は、あなた方を捨てて孤児とはしない。またあなた方のところに戻って来る」と言われ、「聖霊が来るとき、私があなたがたに話したすべてのことを思い起こさせる」と言われた。さらに主イエスは、聖霊を汚す者は永遠の罪に定められると言われている。そのように聖霊と主イエスすなわち御子もまた一体なのである。
 しかし、上記のことがあったとしても、なぜわざわざそれらのことから「三位一体」という教理を導き出さなければならないのだろうか。それは、一つは異端への対処である。父、子、聖霊の三つが一つの神ではないと仮定すると、キリスト教は多神教となってしまう可能性もある。反対に、御子が神でないとした場合には、エホバの証人が言っているように、彼は天使だということになり、キリスト仮現説(肉の体を持たないという説)に陥る可能性が出てくるか、または、人間崇拝となる危険性もあるだろう。
 しかし私は、三位一体の本質は、その信仰規定の形態だと思う。この教理から、すばらしい信仰がもたらされる。それは、私たちから見た場合、御子を中心としたものとなる。まず、御子が唯一の神であるゆえに、御子以外の人間が神とされることはない。また、御子が人間でもあるゆえに、私たちは、神に限りなく近い存在である。私たちは神の子であり、神を父と呼ぶことを許されている。また、聖霊が神であるゆえに、私たちには神の思いが与えられており、御子にも限りなく近い存在なのであり、この世界を御子のように生きることが可能とされているのである
by hanamizukidayo | 2008-01-15 21:39