はじめに
クリスチャンは普通、新約聖書に記されたイエス・キリストは神であると信じています。
この方を神として崇拝してきました。クリスチャンはまた、聖書の神が三位一体の神であると信じてきました。確かに不思議なこと、人間の理性で完全に理解する事はできませんが、神はただ一人の方ではありながら、イエス・キリストが「父」と呼んだ「父なる神」と、そしてキリスト自身、さらに目に見えない神の霊、「聖霊」とか、「御霊」と呼ばれる方が、それぞれ神であるとしてきました。
「父」と「子」と「聖霊」は互いに区別される存在でありながら、決して「三つの神」ではなく、愛の交わりのうちに相互に内在し、一体であるという「三位一体の神」こそ、聖書の教える神であると信じてきたのです。キリスト教会は、3千年に渡って、イエスが神であり、神は三位一体であると告白してきたのです。
こうしたキリスト教信仰に異を唱える人たちはいつの時代にもいました。キリストは「神のような存在」ではあるが、あくまでも被造物であるという主張もありましたし、三位一体の教えは教会が後になって生み出したもので、聖書そのものの教えるところではないという主張もありました。
そのような人々の中で、今日最もよく知られているのは「ものみの塔聖書雑誌協会」(以下・「ものみの塔」の教えを信じている「エホバの証人」たちでしょう。
新約聖書はイエスを「神」とはしていないし、「三位一体」の教えも聖書に語られていないと厳しく教え込まれていますから、そのように信じきっています。しかし、「ものみの塔」の教えは本当に聖書の教えでしょうか。
(略)
この小著を通して、聖書が教えている神がどのような方であるか、どれほど素晴らしい方であるか、知っていただくことができますように。
内田」和彦 キリストの神聖と三位一体・・・・・・・・「ものみの塔」の教えと聖書の教え
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この本を読んで私は、聖書の本当の神さま(父なる神と子なる神イエスと御霊)の理解を深めることができました。これまで探してきた答えが分かりやすく集約されおり、思いもかけないことでしたが「ものみの塔」の神を信じ、その神に仕えることがどれほど内面の矛盾と苦しみを引き起こすものであったことか、納得のいく答えを得ることができました。
教会が変っただけで同じ神さまを崇拝しなければならないなら、そのような信仰は私にとって
苦痛やストレスに他なりませんし、もしそうであれば意味のない信仰、また偽善者になりかねませんでした。
しかし、ずっと以前から第六感とでも言えばいいのか、聖書の本当の教えはこうではないのかな・・とイメージしていた神さまについて、この本で「その通りだった、間違いなかった」と確認できました。神さまの素晴らしいプレゼントとしか言えない喜びを感じます。
難解な部分もあるかも知れませんが、もし共感して下さる方がおられたら嬉しいですし、神さまについて考えておられる方に目を止めてもらう機会があればと考えて、新しくカゴテリーを追加しました。
参照聖書 新改訳 新共同訳 ギリシャ語聖書本文(NovimTestnmemtumGrtece)
以下の記事は本文のまま掲載していく予定です。 2002/2/3
「ものみの搭の不適切な聖書解釈について」…………………………………
今日、「聖書を信じる」と言いながら、イエス.キリストが神である事を認めず、また、聖書の教える神が三位一体であることを否定する代表的な存在は、「エホバの証人」と呼ばれる人々です。彼らは「ものみの搭」の組織から、そのように教え込まれています。
自分たちこそ聖書の忠実な解釈者であって、既製の教会に集うプロテスタントやカトリックの信者たちは聖書を全く理解していないと徹底的に教育され、そう信じきっているのです。
聖書は本当にイエスが神であると教えていないのでしょうか。また三位一体の神は聖書とは無縁な作り事なのでしょうか。
神が偽ることのできない事柄(以下事柄と略します)
あなたは地上の楽園で永遠に生きられます(楽園)
あなたは三位一体を信ずるべきですか(三位一体)
といった文書に展開されている議論を取り上げ、それがどのような点で聖書の教えから離れているかを明らかにしていきましょう。
1 イエスは神でないという主張
イエスは神ではないという「ものみの搭」の主張は「楽園」39-40頁に見出だされます。その議論は単純で、以下の七つのポイントが羅列されているだけです。かっこ内は根拠として挙げられている聖句です。
(1)イエスは「私は神である」と言っていない。
(2)イエスはむしろ「神の子」と呼ばれている(ヨハネ10.34-36)
(3)イエスは「父はわたしより偉大な方です」と言われた (続く)