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私のヨブ記

will3月号で横田早紀江さんの新書紹介を読んだ。

彼女は聖書のヨブ記を読んで洗礼を受けた。
ヨブ記は、行い正しく生きる義人に、神が苦難を与える不条理な物語だ。
畳をかきむしって苦悩する彼女にとって、神との対話なしには精神に
異常を帰したかもしれない。
孫のキム・ヘギョンちゃんの存在を知って、こう書いている。

  めぐみの不幸な人生の中にも、こんな可愛い子が育っているのですから
  神さまは不思議なことをなさる方だなと、私は感動をもって受け止めました。





私の教会でもヨブ記の学びが行われる。
ヨブは、3人の友に「同情してくれ」とは言っていない。
苦しみの重さを「正確に測ってくれ」と訴えている。

この二つをしばしば取り違えて取り返しのつかない愚を犯して
しまう私がある。
昨日もやってしまった!

真面目で誠実な気持ちで聖書研究している人に
「同情」よりも激しい皮肉的かつ批判的な言葉を浴びせてしまった。

立場が逆なら分かるものも、人間は、いや私は自分の立場でしか
ものが言えない。


ある人にとってはその荷は重いが、他の人にとっては問題にならないことがある。
他人の重荷を評価する上で「驕慢になりやすいのが人間の弱さ」とヨブ記から
学んでいるはずなのに。

ヨブは、自分の苦しみ、災害の重さを量ってくれと訴えている。
そればかりか、「落胆している者に、友情をくれ(ヨブ6:14)
さもないと神への恐れを捨てることになるとまで言っている。
さらに、「今、思い切って私の方を向いてくれ。」
     「どうか思い出してくれ」 6:28,29
とまで哀願している。
7章にいたると神に向かって「私をかまわないでくれ」と、
「見張る」神の顧みさえうっとおしく煩わしく
もはやこんな生きながら身体が腐っていく生命を生きたくない。
死にたいとさえ訴える。



牧師先生は言われた。

「私たちもヨブほどではないにしても、すぐわめき散らします。もう生きたくないと。
それにしても、聖書にの中にヨブ記があるのは何と慰めでしょうか。わたしたちは
つぶやくのは悪い事だと分かっていてもつぶやくし、そのくせつぶやく他人を
許せないのです。容赦なくここぞとばかり裁いてしまいます。ヨブの友人のごとく
このどうしようもないのが人間です。

『なぜ、私をあなたの的とされるのですか。』
これもヨブの感動ではなくて、神の顧みを『うるさい!』と
跳ね除ける言葉です。
しかし、神さまは常に何十億もいる中で、このちっぽけな私に的っを絞っていて
下さり、ちっぽけなどうでもいい わたしのために、 御子を十字架に架けるといった
おおきな犠牲を払って わたしを愛されているのです。」



かつて私も叫んだ。
「もうほっといて下さい!これ以上私の人生に関わらないでないで下さい!」

「なぜ私が重荷を背負わなければならないのですか。なぜあの人(組織)ではなく
弱いこの私が」と。

ちっぽけな、ほんとうにちっぽけな存在に過ぎない私が
他人からみたら軽い軽い荷を背負いきれなくて喘いでしまう。
始末に負えない「裁き」さえやらかしてしまう。


けれどもここでお終いにさせないのがキリストの素晴らしさであり、
恵みであるとしかいいようがないのです。


   すべて疲れた人、重荷を負う者、我に来たれ、
                          我 汝を休ません マタイ11:28
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by hanamizukidayo | 2008-03-01 13:00 | 宗教