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教会  -  イースーター礼拝

昨日は教会のイースター(復活節)礼拝でした。

JWの記念式、今年は22日だったようですが、見事な満月を
見るといやでもJWに関わった年月のあれこれを思い出して
しまいます。

JWを辞めても依然としてニサン14日は「特別な日」だという
思いに縛られていたことに今頃、気がつきました。
この時期は記念式に誘われることとはまた別の意味で、
毎年気持ちが沈みがちでした。

イエスさまの受難、組織を離れても「特別な日」だという思いを
捨て切れなかったのはこれだったと思います。


不活発になってから私は家族も親しい人も記念式に招待しようとは
全く思わなくなり、式が始まる直前に会場に駆けつけ誰とも話さず
終わったらすぐ席を立つ、そうした2,3年を経て一昨年から
行くのをやめましたが、私にとってJW最後の呪縛は記念式への
こだわりでした。今年は教会で2月から6回に渡って受難節の
メッセージを聞くことができたのは幸いでした。


イースター礼拝ではマルコ16章を中心にしたメッセージを聞きました。

主イエスが罪人として刑場で亡くなった後、本来ならそのまま
罪人は放っておかれるところをアリマタヤのヨセフという有力者が
ピラトに遺体の引渡しを申し出たので、イエスの亡骸は墓に収められ
たこと。女達は(弟子の男たちは散っていた)イエス様の最後に立ち会い
お墓の場所も見届けて知っていた。そして安息日が明けてから
「墓の入口から誰が入口の石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら
向かったが目を上げると石はすでに転がしてあった。そして、
墓にはイエスの亡骸が無かったので、女たちは怖くて震え上がった。
                     (マルコ16章)

弟子達にとってさえ、イエスの復活はその時点で信じがたい出来事でした。
決してきれいごとだけを見る者ではない、現実の厳しさや見過ごしやすい
自分自身の醜さをクリスチャンは見る者なのです。
そして必ず死を迎えますが、キリストの甦りによって永遠の命に移される
道が開かれましたから、主イエスが死んで復活されたこの出来事は聖書の福音です。
(↑メモを取らなかったのでうろ覚えです)



残りの者級という特別な人々を崇める「特別な式典」、それは
聖書のどこにもないJWの独善的な教理でした。確かに表向きは
キリストの死に注目させていますが、同時に油注がれた「特別」な
人々を過度に際立たせようとする偶像崇拝の儀式です。

「油注がれた特別の人々」だけが天に行き支配者となり、他の人たちは
自分たちに支配される大群衆だと思い込んだ一部の選民思想人間に
注目させるためのパンとぶどう酒を見守る式典。キリストの贖罪とセット
になっていたため、長い期間誤った教えの刷り込みから解放されていなかった
ことにやっと最近気が付きました。



昨日の礼拝には友人が来てくれました。


「もったいぶった話し方でないところが
とても良かった。行って良かった」と
夜、メールが届きました。

思うところは一緒です。
もったいぶった話が得意で、特別の人種のように振る舞い
世の中の人たちを裁き、仲間でさえ自分たちの基準にかなわないと
平然と裁いた会衆の指導者たち。

会衆に痛めつけられ傷ついた人たちが
主イエスさまの本当のメッセージによって
心の安らぎと霊的な傷が回復できますように。



      。。。。。。。。。。。。。。。

先週から花粉症で、毎日クシャミとハナミズ・目のかゆみに
参っています。今年は予報通り花粉の量が多いですね。
去年は比較的楽だったのでそろそろ体質が変わって治ったかなと
期待していたけれど、甘かったようですw

薬を飲み飲み動いていますが、休日に幾ら寝ても疲れがとれません。
体調が良くないと考えもまとまらないので、更新も滞ってしまいがちです。
また、よくいくサイトには目を通しているのですが、なかなかコメントできなくてごめんなさい。
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by hanamizukidayo | 2008-03-24 01:42 | 宗教