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信仰と狂信の違い

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『セクト危険注意』(抄訳)
(国際ジャーナリスト・広岡祐児『フォーラム21』H16.2.1)

議会報告2468号がでたあとの96年9月にフランス青年スポーツ省が出したクラブや林間学校の指導者等宛の小冊子「セクト危険注意」を抄訳します。


何によってあるグループをセクト的だと決めつけられるのでしょうか?

まず不寛容、主導者(gourou)が曝いた真実だけが唯一無二なものだと信じ込むことがあげられます。残りのものはすべてそこから派生します。服従、虚偽の約束、だんだん大きくなる要求(金銭、時間、献身)、断絶(友人、家族、そして時には勉学や仕事)、監視、信者を募る義務、継続的な完全な従属、一言でいえば有害性。




セクトが明日の信者に誘いを掛けるため、利用する仮面とは何ですか?

理想、宗教、指導者の見せかけの価値、スポーツ・文化・人道主義的な政策、偽治療法、慈善活動、女性擁護、平和擁護、第三世界との連帯…




信じ込みやすい、狂信的な人々だけに関わる問題なのではないでしょうか?

違います。勧誘される人ははじめは普通の人達と同じです。まさに鋳型にはめるともいうべき方法ですこしづつ変化させた後、彼らは従属した、服従した、ロポット化された、あるいは狂信的人物となるのです。このように、我々は誰でも勧誘される危険性がありますが、それは決してセクトそのものには足を踏み人れたつもりではなくても、魅力的で、一見無害と思われる集団にははまってしまうからです。




俳優や知識人たちなどたくさんの人々が、入信したことによって価値あるものを獲得したと発言しているのは何故でしょうか?


まず、セクトが彼らをまるで王子様のごとく扱うからです。次に、彼らは重大な欠点とは別に、不安定な困難な仕事に立ち向かっていくための集団の支えという利点をそこに見い出すからです。最後に、高い代償を払って手に人れたものは簡単に放棄できないし、心理操作によって離脱行為はすべて裏切りと見なすようにされているからです。




このような集団に、どんな期待を抱いて入信するのですか?

じつに様々です。ある人達にとっては、温かい集団を見つけること、まことしやかに調われた大義名分への賛同や宗教的な理想の発見であったり、混乱や疑惑から逃れることであったり、奇跡的に病気を治すことであったりもします。




我々は、自由な国にいます。誰かをあるグループに強制的に入らせたり、力づくで引き留めたりすることがどうしてできるのでしょうか?

まさに、誰も力づくで引き留めたりはしないのです。少なくとも最初の頃は。その後、徐々に心理操作が行われていくのです。




それは、洗脳ということなのでしょうか?

洗脳よりはるかに狡猾(こうかつ)です。例えばヴェトナムで捕虜になったアメリカ人操縦士が受けた洗脳は強制的に行われました。現在のセクト集団では、信者は自発的に自己変革するとか、人道的あるいはエコロジー活動に身を投じるとか、治療するとかいっています。しかし、信者は騙されているのです。




何故人々はセクトについて行くのですか?


恩恵を期待しているからであり、またセクト集団やその指導者が説得力に長け、魅力的だからです。更にセクトは、個人が秘かに抱いている不安や疑惑を煽ります。人に劣等感や罪悪感を持たせるのです。




その代わり、何が約束されるのでしょう?

進歩、権力の獲得、啓示です。




そして実際には?
 

感情的な反応を挑発し、感動的な証言を提示し、集団の効果あるいは孤立や疲労の状況を作り出します。こうした事によって、教化に対して人を無防備にさせてしまうのです。
 その追究を我々に提示します。セクトにはまり込む人達はそれを信じているのです。実際にはセクト集団は、従順な信者の活力や仕事、金、時には肉体をも搾取し、その上に指導者の支配力を構築して強化することを狙う権力や集金の装置であることが多いのです。



あらゆる社会参加(政治的、宗教的、あるいは人道的)は、セクト主義への一歩を含むものなのですか?


セクト集団には組織への取込みがつきものです。社会参加と組織への取込みとは大きな違いがあります。
・社会参加は、一時的で変換が可能。
・社会参加はほんとうに自分を待ち受けているものがわかっているが、組織への取込みをされる者はわからないまま。
・社会参加では心理操作は存在しないが、セクト集団では必ず系統的に行われる。
・社会参加は限られた活動範囲のみに関係するが、組織への取込みは、全体的支配の構築(意見、信仰、感情、行動の仕方、あらゆる領域における服従)を目指す。




信仰と狂信との違いは何ですか?


信仰は寛容を前提としますが、狂信は一体性を要求し、外のあらゆるものと闘います。
 
信仰は私は信ずると言いますが、私は知っているとは言いません。

狂信は反論を拒否し、絶対の真実に自分たちは直結していると主張します。



宗教とはどう違いますか?


宗教は常にセクト的逸脱と無関係だったわけではなく、そのために闘いや迫害を巻起こしました。主な宗教に含まれるある種のグループが、現在でもなおセクト組織の様な行動を取っているとしても、その一般的な方向はセクト的狂信とはかけ離れています。さらにセクト主義は宗教の領域のみ関係しているわけではありません。他にもセクトのグループや組織は存在します。例えばナチズム、この政治的、思想的なセクト主義はとてつもない恐怖を引き起こしましたが、宗教として紹介されたことは1度もありませんでした。



宗教はセクトとして始まったのではないのですか?

主要な宗教はむしろ、過度な知的、宗教的、政治的権威に反対する解放組織のようなものとして始まり、創立者の死後発展していきました。それは幹部が個人的な権威あるいは栄光への追究を達成しようとした場合に限りセクト的な逸脱をしました




何故セクトを非難するのですか?

問題はセクトを迫害することではなく、犯罪が現実にあるという事実です。たとえば、子供の権利や労働法、民主主義的自由を遵守しないこと、汚職や現体制の転覆を試みることなどです。




何故国家は、セクトを禁止しないのですか?


思想の自由、宗教の自由、結社の自由によってセクトの禁止ができないようになっています
。実際、国家は、セクトのメッセージの内容だけから、ある団体は許可し、ある団体は禁止するというように宗教団体(あるいは偽宗教的、哲学的な集団)の間で差別するわけにはいかないのです。思想の異なる流派、伝統宗教、あるいは(危険の有無に関わらず)セクト[訳注:宗派、少数派宗教の意]の間に、信仰の理論上から可能な識別法はありません。それは、不可侵な領域であり、現状維持していくことが適当だと想われます。




セクトの違法的不正行為は、何故あまり処罰されないのですか?


普通法への侵害について議論が起るたびに、セクトの代表者らは、決まって宗教の自由というお得意の分野に議論を移そうと努めるからです。セクトに対する告訴の多くが失敗に終わるのは、被害者と推定された者が、法廷では事件の際同意していたとみられたり、セクトの信者が皆完全に心理操作され、弁護側証人として登場し、偽りの証言によって法廷を惑わすためです。




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<追記>

民主石井氏の「公明ばい菌みたいなもの」発言に新聞・マスコミの反応は鈍かった。
鈍すぎる。広告料スポンサーに頭が上がらないからあえて話題にしないのか、言ったのは民主だから・・にしてもこの偏向ぶり。これが与党側の発言だったら謝罪しろ、辞めろの騒ぎどころではないはずだ。

それはさておいて、JW系某掲示板に今日この記事を貼った。
元の人たちにもいろいろあって、一世、二世・三世の世代による見方の違い、例えば
宗教観や思想あらゆる好み、そこに多様性があるのは当たり前なのだが・・

ただ組織に対する考えの温度差、こればかりは簡単に同調できないものがある。
確かにJWを強く否定することで、自分のアイデンティティを再構築しようとする心の
作用も分るつもりだが、ある対象と比較し自分を高めたいだけに見える人も見かける。
たいていの元JWにとって、組織=自分史でもあるわけだし、愛する家族が
捕らわれているとすればJW=カルトは否定したいという気持ちが分らなくも
ない、が あえて言わせて貰う。はっきり言って残念ながら違和感を感じる。


カルトをカルトと言うことは差別語を使う失礼な態度だとでも思っているのだろうか?

上のサイトは学会の問題を扱っているが、JWはここまで汚くなかったと思われるだろうか。
もしそうであれば少し立ち止まって考えて欲しい。


私たちは学会よりもましな宗教だったと内心考えていないだろうか。
身に降りかかった不幸を嘆きながら、もし他人の宗教の不幸を見下す心があるなら
まだまだマインドコントロールが解けていない証拠では?

この記事にあるように、国家がセクトを取り締まるのは非常に難しい。
オウム事件を通しても私たちはそれをよく理解できる。

結局マスコミに訴えて何とかして貰いたいというのは、現実的ではない。第一甘い。


拉致被害者横田めぐみさんのご家族や、山口母子殺人事件の本村さんが、国を動かし司法を動かせたのは何だったのか。私が思うにそれは、良識的なごく一般の人々の心を動かす何かがあったからだと思う。その何かが、国(政治家)や裁判に反映する言動力になった。。つまり良識ある人々の支持、<世論>が見方になった功績だと思う。
そして世論を、人々の心を動かしたのは、ごく普通の良識的で健全なものの見方を貫かれた
横田さんや本村さんの姿、つまり誠実で真摯な家族を思う愛が、見る側の琴線に深く触れたからではないだろうか。もし、自分がその立場におかれたらどうか、人事ではないと。

事件当時、若干20台前半だった本村さんの、死刑を求める主張はテレビ・マスコミさえ動かした。新日本製鉄の技術者として、社会人としての勤めを果たしながら、過酷な裁判を闘われた。

理不尽な裁判結果にやり切れない思いをマスコミ世論に訴える手段として、自殺を考えた日々もあったと言う。しかし死んで逃げるのではなく勇敢に立ち向かわれた。


最高裁の判決が下りてから、本村さんはこう書かれている。

遺族のこれまでの思いを代弁してくれただけでなく、過去の判例に捉われることなく、まさに真相を究明し、事実に即した判決を下してくれたことに感謝する。
(略)
君(元少年)への死刑が執行されるなら、結局、事件で3人の尊い命が失われることになる。それからの私は、君を含めて3人の十字架を背負って生きていくのである
。                                                      will 6月号


たった一人の戦い、たった一人で引き受ける 重みへの覚悟

その姿に、現代人が失った尊い精神の高みを人々は見た。


人を動かすものは何か。
救い救われるとはどういうことか。

大切なものを守る強い意志と決意、戦うこと、恐れないこと、失意から立ち上がること。
謙虚に真摯に向き合っていくことこそ、カルトを経験した私たちの課題ではないだろうか。
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by hanamizukidayo | 2008-10-07 20:13 | 宗教