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666考ー1

2002-2003 MEDIK Investment Co.,Ltd All Rights Reserved 5
⑥-5【 悪魔学講座 】 2002.11.15
西洋社会の表の顔がキリスト教なら、裏の顔がグノーシス思想だと書きました。キリスト教でさえ無
知に等しい日本人にとって、グノーシス思想となると知識のある人は皆無と言える現状です。が、しか
し、このグノーシス思想を知らなければ西洋社会、国際政治、世界経済の真の姿をつかむ事は出来ませ
ん。
ではグノーシス思想(主義)とは、どういうものなのか、出来るだけ分かりやすく解説しましょう。
グノーシス思想の基本理念は、絶対的な二元論です。
キリスト教では、全てのものは唯一絶対の神、万物の創造主である神が作りたもうたと考えます。言
うなれば人間も悪魔も、善も悪も全て必要あって神が作ったとみるのです。したがって、人間がそれに
対してとやかく言う筋合いではなく、すべてを神の手にゆだねる姿勢がクリスチャンの信条となります。
これに対してグノーシス思想では、善なる神が君臨する精神世界と、悪なる造物主・デミウルゴスが
創造した物質世界の二つがあると考えます。つまり形あるものとないものの二つですね。
人間を人間たらしめているのは霊魂であり、これは元々は精神世界に属する善なる清いものでしたが、
それを悪の造物主・デミウルゴスが物質である肉体に閉じ込めてしまったというわけです。その結果、
人間は本来の善なる神を忘れ、肉体を支配するデミウルゴスを神と誤解してしまう羽目になりました。
ゆえに人間は物質世界の中で色々な欲にとらわれ、苦悩せざるをえないわけです。
そこで、この苦悩から脱け出すために、第一に禁欲に努めて精神を純化、浄化させようという方法や、
逆に決まりや道徳など無視して、性の快楽を享受しようという方法まで、色々な手段が考えられました。
キリスト教的には、イエス・キリストが人々を目覚めさせ、本来の精神世界の善なる神の所に戻らせよ
うと、使者として人間の所に派遣されたととらえます。
このようにグノーシス思想は、キリスト教にも取り込まれていったわけですが、それにしても絶対に
相入れない部分が残ります。それはつまり、すべては唯一の神が創造したというキリスト教と、善と悪
の2つの支配者がいるというグノーシス思想の根本的な違いです。
そこで善に対して悪の造物主がいる。この世の物質世界は、この悪の創造主・デミウルゴスが支配し
ているという思想を拠り所にして、そこから後世、現在に至るまで綿々と受け継がれてきた秘密結社や
オカルトの流れが出来たわけです。すなわち悪を崇拝する思想が、現在まで続いているのです。
前回はグノーシス思想においては善と悪の2つの支配者がいる。その悪の支配者、人間の肉体の支配
者の名前はデミウルゴスであると書きました。
善と悪、2つの支配者、造物主を認めるグノーシス思想と、唯一の想像主しか認めないキリスト教と
は、絶対に相容れない立場です。ゆえにイエス・キリストが登場して以後、両者の対立は激しさを増し
てきます。それが聖書にハッキリと現われているのです。
言うまでも無く聖書には旧約と新約の2種類がありますが、悲しい事に日本人は、その違いすらよく
知りません。そこで旧約はカトリック、新約はプロテスタントの使う聖書だ、などということを平然と
言う羽目になります。そんなことを欧米人の前で言ったら、たちどころに白い目で見られ、無知無教養
の未開人と思われる事必至ですから、ビジネスマンの人は十分に気をつけて下さい。
旧約というのはイエス・キリスト出現以前の、古い神との約束(契約)を意味します。ですから旧約
聖書にはイエス・キリストは出て来ません。
そしてキリストが登場して、神との古い約束を破棄して、改めて新しい契約を結びます。それが新約
聖書です。
話が横にそれますが、キリスト教、クリスチャンにとって、この旧約と新約の扱い方は非常に難しい
問題をはらんでいて、信者にとって苦しみを生む種にもなっています。今のクリスチャンは、突き詰め
るとカトリックもプロテスタントもイエス・キリストを信じているのであり、キリスト抜きのキリスト
教はありません。ならばクリスチャンは新約聖書だけを拠り所にすれば良いはずです。だってキリスト
が神との契約を結び直したのですから。ところが旧約も引き続き信仰の対象にしているから話がややこ
しくなっています。まぁ、これは悪魔学とは直接関係無いので、今シリーズでは深く追求はしませんが。
さて、旧約聖書と新約聖書を読み比べてみると、大変重要な事に気付きます。それは旧約聖書では悪
魔、サタンについての記述がほとんどありませんが、新約聖書では悪魔、サタンがやたらと出てきます。
新約聖書のトップに出てくるマタイによる福音書を読んでも、イエス・キリストは荒れ野に行き悪魔
と戦います。この時の有名なキリストの言葉が、「人はパンだけで生きるのではない」です。対して悪魔
は言います。「もしあなたが、ひれ伏して私を拝むのならば、これらのもの(世の全ての国々)を皆あな
たに上げよう」もちろんキリストは拒絶します。
この内容は大変重要です。財産、権力などを手に入れる事こそ最大の目的とする考え方がキリストに
挑戦しているのです。彼らにとってイエス・キリストとキリスト教は最大の敵なのです。そして、その
戦いが現在まで2千年も続いているのです。
投資前回はグノーシス思想においては善と悪の2つの支配者がいる。その悪の支配者、人間の肉体の支配
者の名前はデミウルゴスであると書きました。
善と悪、2つの支配者、造物主を認めるグノーシス思想と、唯一の想像主しか認めないキリスト教と
は、絶対に相容れない立場です。ゆえにイエス・キリストが登場して以後、両者の対立は激しさを増し
てきます。それが聖書にハッキリと現われているのです。
言うまでも無く聖書には旧約と新約の2種類がありますが、悲しい事に日本人は、その違いすらよく
知りません。そこで旧約はカトリック、新約はプロテスタントの使う聖書だ、などということを平然と
言う羽目になります。そんなことを欧米人の前で言ったら、たちどころに白い目で見られ、無知無教養
の未開人と思われる事必至ですから、ビジネスマンの人は十分に気をつけて下さい。
旧約というのはイエス・キリスト出現以前の、古い神との約束(契約)を意味します。ですから旧約
聖書にはイエス・キリストは出て来ません。
そしてキリストが登場して、神との古い約束を破棄して、改めて新しい契約を結びます。それが新約
聖書です。
話が横にそれますが、キリスト教、クリスチャンにとって、この旧約と新約の扱い方は非常に難しい
問題をはらんでいて、信者にとって苦しみを生む種にもなっています。今のクリスチャンは、突き詰め
るとカトリックもプロテスタントもイエス・キリストを信じているのであり、キリスト抜きのキリスト
教はありません。ならばクリスチャンは新約聖書だけを拠り所にすれば良いはずです。だってキリスト
が神との契約を結び直したのですから。ところが旧約も引き続き信仰の対象にしているから話がややこ
しくなっています。まぁ、これは悪魔学とは直接関係無いので、今シリーズでは深く追求はしませんが。
さて、旧約聖書と新約聖書を読み比べてみると、大変重要な事に気付きます。それは旧約聖書では悪
魔、サタンについての記述がほとんどありませんが、新約聖書では悪魔、サタンがやたらと出てきます。
新約聖書のトップに出てくるマタイによる福音書を読んでも、イエス・キリストは荒れ野に行き悪魔
と戦います。この時の有名なキリストの言葉が、「人はパンだけで生きるのではない」です。対して悪魔
は言います。「もしあなたが、ひれ伏して私を拝むのならば、これらのもの(世の全ての国々)を皆あな
たに上げよう」もちろんキリストは拒絶します。
この内容は大変重要です。財産、権力などを手に入れる事こそ最大の目的とする考え方がキリストに
挑戦しているのです。彼らにとってイエス・キリストとキリスト教は最大の敵なのです。そして、その
戦いが現在まで2千年も続いているのです。

イエス・キリストの出現により、「人はパンだけで生きるのではない」というキリスト及びキリスト教
と、「人はパンのみで生きるのだ」という悪魔及び悪魔教とは全面的に対立しました。
その後、表面的にはキリスト教が勝ち、グノーシス思想に代表される悪魔的な考え方は消えていきま
した。しかし、実は水面下に潜っただけであり、その戦争は今日まで2千年にわたって続いているので
す。それが日本人にはまったく理解出来ません。
この2千年にわたる戦争は、一度で決着がつくようなものではなく、悪魔の教えを信奉する勢力は、
ちょうど病原菌が長い潜伏期間のうちにじわじわと肉体を侵し、衰えさせるように世界の隅々に広がり
続け、時に発作を起こすように大きな事件、混乱を作り上げていったのです。
ひとつの例をあげると、悪魔勢力と対立してきた最大の世界的組織はカトリックです。しかし、カト
リックの総本山であるバチカンの中枢には、反カトリックの先兵組織のひとつであるフリーメーソンの
息のかかった人物が何人もいる、という事が公然の秘密となっています。
もっとも、カトリックも、この2千年の間に何度も腐敗、堕落して、聖職者が金や色欲にまみれまし
た。それに対して反旗を掲げて宗教改革に火をつけたのがマルティン・ルターです。このルターから始
まったのがカトリックに対立するプロテスタントです。
このあたりは学校でも教科書で習いますが、所詮表面的な歴史を暗記するに過ぎません。問題はもっ
と奥深いのです。
面白い事に、カトリックの腐敗、堕落を厳しく追及したルターは、悪魔に苦しめられていると自ら告
白しているのです。彼は悪魔達と哲学や神学について論争し、時には言い負かされそうになり、悪魔の
顔にインクのつぼを投げつけたという逸話があり、彼が居た修道院の壁には、その時のインクのしみが
今も残っています。
ルターが論争した悪魔というのは、彼が幻覚を見ていたのでしょうか?そうではないと思います。日
本でも平安時代以降、鬼や妖怪が多数登場してきますが、当時の人々は、権力に従わない者(たとえば
山賊や海賊)を鬼と見ていました。天狗も山伏の事です。最近日本では安倍清明という陰陽師がスポッ
トライトを浴びていますが、彼が操っていた式神という怪しげな手下も、今でいうスパイのような人物
たちだったと思われます。
ルターは悪魔と表現される邪悪な人間達と激論を交わしていたのでしょう。そしてついに宗教改革は
カトリックとプロテスタントの分離という歴史上の大変革を成し遂げます。これで本当に笑ったのは誰
なのか?カトリックを敗北に追い込んだルターなのか?いいえ、笑ったのは実は悪魔だったのです。皮
肉な事にルターは悪魔を助けてしまったのです。

以前も当レポートで書いた事がありますが、資本主義はキリスト教の中でも宗教改革によって出現し
たプロテスタント勢力によって生まれたと言われています。
イエス・キリスト以来のカトリックは、教義の建て前としては金儲けに否定的でした。それは新約聖
書の中でキリストの言葉によってハッキリ語られているからです。
「あなたがたは自分のために地上に宝を積んではならない」(マタイ6章19節)
「あなたがたは神とマンモン(マネー、財産)とに兼ね仕えることはできない」(同6章24節)
「金持が天の国に入るのは、むずかしいことである」(同19章23節)
従って、仏教と同じくキリスト教・カトリックにおいても金銭的執着を絶つというのは、修道者にと
って重要なテーマであり、現在でも修道院では清貧を旨とする生活が営まれているのは、よく知られて
いるとおりです。
これに対して、プロテスタントの場合は、ごく一部の例外を除いて修道院というものはなく、教義上
聖職者の結婚も許されており、独身を守るカトリックとは異なります。
そうなると、もうピンと来ると思いますが、金儲けをしようとする人々、財産を蓄えたいという人々
にとって、カトリックの存在は大変目障りであり、事業拡大の障害以外の何ものでもありません。それ
なら、この際障害を取り除いてしまおうというのが、宗教改革のもうひとつの重要な側面だったのです。
そして、戦争を仕掛けるにあたっては大義名分が無ければ支持を得られません。まず必要なのは相手
に非があることを天下に広く知らしめる事です。ゆえに倒す相手のカトリックを徹底的に腐敗、堕落さ
せる事は、戦争を勝利に導く第一条件でした。
もうひとつ重要なのは表舞台で芝居を上手に演じてくれる役者です。理屈だけでは大衆は動きません。
大衆を動かす能力のある人間が必要であり、宗教改革の場合はルターでした。近代においてはヒトラー
がそうです。ヒトラーだけを見ても時代の真実には迫れません。ヒトラーという一種の天才を上手に操
って莫大な利益を上げていたのは、実はドイツの敵国・アメリカのロックフェラー、モルガン、ハリマ
ンなどの財閥であったことは、歴史的事実ですが、日本の教科書には出て来ません。
当時、ドイツ債の商いで大儲けしたアメリカの投資銀行、W・A・ハリマン商会。そこでドイツ債の
商いを取り仕切ったのが、プレスコット・ブッシュ。そう今のブッシュ大統領の祖父です。
歴史というのは、光あるところに必ず影があります。実はその影、陰の部分こそが本当に知らなけれ
ばならない重要なポイントであり、教科書では分からないのです。
投資

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by hanamizukidayo | 2009-02-13 09:23 | 666