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<   2008年 01月 ( 38 )   > この月の画像一覧

空極の死

昨夜、義兄のお店に慶応病院で働いている人が
ひとりで来たので、手伝いの合間におしゃべりした。

安倍さんが入院された時、「一国の総理があんな古びた病室で
治療とは嘆かわしい」と何かで読んだのが気になっていたので、
「慶応病院の病室って、そんなに質素なんですか?」と訊ねたら
そうなんだと。
医学部は保護者に寄付を押し付けないから、余分な収入が
ないので、建物はかなりボロイんだそうです。

慶応と言えばお金持ちの子弟が行く大学というイメージだが、
そう言えば先日の新聞にも、医学部の学費のランクが出て
いたが、安い(と言ってもうちでは無理w)ほうだったので
以外だったことを思い出した。

私にも麻酔医になった甥がいるが、妹夫婦は普通のサラリーマン
家庭だったし、どうやって学費を捻出したのだろうかと今さらながら
苦労したんだろうなと思ってしまった。そういう事を察したりするように
なったのは恥ずかしながらJWを辞めてからです。

当時は熱心JWの活動で忙しく、正直言えば妹たちの生活など
無関心だった(何て姉だ!)
当然妹もフルタイムで働いていたので、実の妹だというのに
20年もの間会ったのは5本の指で数えるくらいしかない。
今は頻繁に電話したり仲良くやってますが、

「ずーーっと淋しかったんだよ」と言われた時、
「バカげた事やっててごめんね」だった。


甥が卒業して間もなく、妹の努めていた会社はある大手と
合併になるということを機会に退職したと知らせがあり・・

それから数年後、妹たちは離婚してしまった。
私と違って芯が強いので、両親もあっさりと認め
「そのほうが幸せだろう」とむしろ喜んでいた。
私も母に離婚したいと一度だけ相談した時が
あったが、
「無理、無理。やめたほうがいい」と反対された。
この反応の違いはいったい何?

まあいいんだけど。


話が大幅に逸れました。


臓器移植のことを言いたかったのですが、私は
漠然とながらドナーに登録したいと考えていました。

で、そんな話したら病院勤務の人が言うには実際のビデオとか
見たら、とてもとてもそんな気持ちは吹っ飛んでしまう
だろうと言うのです。
死んだら後の事はもう本人は分かないし、何か役に
立つのならそうしたいと思うかもしれないけど、
それほど単純なものじゃない。残された家族の気持ちも
考えないとね。
骨髄移植も安易な考えでいったん登録したら大変だから
お薦めしないと言われました。

まず、家族と話合って現実を考えて検討しないといけない、
そう言われました。確かにごもっともです。

いい死を迎えるために何ができるだろう
残された時間をどう使おうかと
最近とみに考えるのですが、
今日の牧師さんの説教によると、


 老人は早く死んでください。国のため   

 
という川柳があるそうで



これぞ、空極の死に方かも    
などと、苦笑いしてます。
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by hanamizukidayo | 2008-01-20 22:24 | 日常

近況   仕事編

コメント欄を再開してよかった♪

泥臭い記事しか書けませんですが
コメントいただくとやっぱり
嬉しいですね^^;

今日は途中で帰宅して書いてから
また仕事で出かけます。
帰りは9時過ぎになりそうです。
働き者でしょう? はは・・

お返事は帰ってから書きます
まこさん、さくらさん、ななしさん
ありがとう♪
    ..................................................



たくさん仕事してたくさん稼がなくちゃ
などと
申しましたが


どういうわけか?
我が家の経済状態は
火の車です

「お父さんったら仕事に行くフリして
どこかでサボっているんじゃないの?
なんでこんなに赤字が続くのか
意味不明~」



夫をなじり、
長男には


「いいかげん食費くらい
きちんと入れてよね。

でなきゃ
もう ご飯作らないよ!」


言われたほうは
そりゃあ 気分悪かったろうね

怒りました
怒りました


きつい言い方して
悪かったなあと
後から思ったけれど
本音でもあったから
言い訳はしなかった

いつまでも
あると思うな
親と¥だもの


事務所に電話して
「うちの仕事暇でしかたないので
また使ってくださいね
よろしく」

伝えたら

「わーぃ、人がいなくて困ってたんだー」

次の週から何件も増えて
急に忙しくなった

仕事大好きだから
私も嬉しいし

何よりも
働けるって
ありがたい

自分のペースで動いて
仲間たちとわいわい
相談したりされたり
それだけでも楽しいのに

新しく出会った人達が
やさしくて

おまけに

話が合うものだから
行くのが楽しみです

ちなみに週2回いくことになった
おうちでは
お互いに慣れてきた事も重なって
ふとしたことで
株の話から
政治の話に発展した

天皇陛下の話をしてくれるおじいちゃんが
面白いのです
米国人の娘婿のおばさんは
今の陛下の家庭教師だったそうで

仕事の合間にちょっとづづだけど
昭和天皇とマッカッーサーの
話とか聞かせて貰える^^


娘婿さんは日本語が話せないそうですが
会えばすばらしい笑顔で

「コンニチハ!」


挨拶されます

ハウスキーパーだと思っているのかな

きっと日本は
国民皆保険制度や
介護保険制度が整った
いい国だと思ってる気がする

だって
奥さんの扶養家族として
日本で皮膚癌の治療を
受けているそうだから



そうそう
ダンナはあれから真剣に動き出し

長男は「今月から入れます」と
頭を下げてきた

二男は
毎晩
夕食の洗い物をするようになった

この子なりに気を遣っている


気まずい空気が流れたお正月が
過ぎ

こうして家族が繋がっていく

言いたいことは我慢せずに
ちゃんと伝えよう


家族よ、ありがとう

仕事、バンザイ
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by hanamizukidayo | 2008-01-19 15:20 | 日常

 近況  うつ編

最近冬季欝が、だいぶよくなってきました。
毎年秋の終わりから春先まで不調です。
心配事や悩みが重なるともうお手上げ
頭も身体も全然働かないし
何よりも
家事が一番苦痛です。

それなのに、仕事だと頑張れるから不思議で、
もしかしたら、わがまま病なのだろうか
自分に甘いだけなのかなと
そういう事も含めて また
自己嫌悪に陥ってしまいます。
そんな反省を繰り返しつつ
性懲りもなく
喰っちゃ寝、ゴロ寝、あげくにふて寝の
そんな数ヶ月でした^^;


日照不足がよくないと何かに書いてありました。
炭水化物がたくさん食べたくなり、眠気を催し
冬眠モードになるんだそうです。

当然太るわな
そのとおり、
身体重たいです

たくさん仕事して
たくさん動かなくちゃ

たくさん稼がなくっちゃ


悩みの種は金欠病でした
果報は寝て待て!
ていうわけいきませんですね



今日からコメント欄再開します
よろしくお願いします
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by hanamizukidayo | 2008-01-17 23:07 | 日常

興味深いと思ったサイトの紹介

なぜ人はカルトに惹かれるのか
   
   

     サイト名  Palm Branch / 記事 わたしが書いたエッセイ集 
                                        
http://ww4.et.tiki.ne.jp/~sophia/pb/

  「人は完成するために生きているのではない」というメッセージが
  力強く響きました。感情面・思考・神秘的価値感から人がカルトに
  入っていく心理状況を分析し、さらにそれがなぜ作られるのか(第3章)
  納得できる内容です。カルトの教理や思想の本質には、「大人に
  なることへの否定の心理」が潜んでいる・・・従って教理の内容には
  すべて親子関係の中の子供としての位置づけが要求されている。

  
   これだな!と思いました。健全な親子関係で満たされなかった人が
  心の隙間を埋められる場所を見つけたと錯覚してしまう要素を
  カルトは、ちゃんと見抜いて、用意しているのですね。
  そこでいったん、親子関係の中の子供の立場が確立してしまうと
  辞めるにやめられない感情のもつれが内外から沸き起こります。
  しかも、信者は訓練された従順な「子供」なので、良心が自らの
  弱さを責める方へ向かい、そうやって自尊心は壊されていきます。
  
  
  


■新世界訳は改ざん聖書
http://www.kln.ne.jp/jehovah/

個人的な主観ですが、神が三位一体なのか関心のある方にはお薦めかもしれません。
元証人の場合、三位一体の神という概念を受け入れたくないとか、
信じないという人が多いように思います。

三位一体は聖書に明示されておらず、また調べてみても頭では理解できない
難しい概念のようです。
教会史の中で出来上がった「神聖な奥義」と言われています。確かに、
キリストが生まれる前まで、一神教はヤハウェーの神だけを見上げていれば
「済んだわけですが、イエス様が来られてまた昇天された後、私たちにとって
霊者として、神と人間をとりなして下さる存在に過ぎないのでしょうか。
幾ら最高の権能が与えられたみつかいの頭とは言え、神さまの創造物以上でもなければ
以下でもない(当たり前ですが)、みつかいなのでしょうか。

それぞれ言葉としては違うけれど、神さまの本質は父なる神・子なる神・聖霊なる神
の三位一体で、私は父と子と聖霊がひとつであるという考え方に違和感はありません。
むしろキリスト者がバラバラの神ではなく、一神教の神を崇拝するのであれば、
三位一体を受け入れていいのではないかなと思います。

話が逸れるかもしれませんが「私は(頭で)理解したから信仰する」
とか、
「証拠があるから信じる」という宗教観はエホバ型の信仰ではないでしょうか。
神さまは人間の思考をはるかに越えた存在ですから、神さまの全体を知る事は
人間的な理解で測るものではないと思うのです。

神さまは創造物を通して存在される根拠をたくさん証しておられますが、
一番知りたいと思う事柄や望むものに関し、人間の都合に合わせて答えては
くださいません。
ですから、キリスト教の中に良い意味の神秘性をみるのはごく自然な事ではないかと
私にはそう思えるのです。
それで、聖書を探求する事は良いことですが、、その目的がカルト宗教のように、
理論で武装し、正しく見せるために調べ上げるのはおかしいことだったと思います。



昨年末、遠藤周作氏の小説「沈黙」を読みました。

キリシタン迫害が厳しくなった江戸時代に布教活動した司祭は、捕らえられ
踏み絵によって転ぶ(幕府の命に従う)ことを迫られます。
先輩のフェレイラ神父の助言により、彼(司祭)が転ぶことにより、
司祭に従った多くの日本人信徒が拷問と処刑を免れた歴史上の出来事を
小説化したものです。

この出来事でフェレイラ神父も司祭も本国の教会から破門されますが、
厳しい迫害と労苦にあえぐ宣教者や日本人信徒の苦難に対し、神は
沈黙を通されている。神はどこにおられるのかという苦悩と絶望の
極みの中、踏み絵に足をかけようとした「その時、踏むが良いと銅板のあの人(キリスト)は司祭に向かって言った。踏むがいい。おまえの足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ・・・・」と。重いテーマでした。

私たちは比較的恵まれた時代、社会に住んでいますが、たとえこの世が地獄のように辛い(人間世界の本質は地獄かも)日があっても、神さまがいつも共におられると信じていきたいと思います。



■コアラさんの日記
http://myhome.cururu.jp/rihabirikoara/blog

元統一教会二世さんのページです。
カルトやACの後遺症と回復過程を丁寧に語っています。
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by hanamizukidayo | 2008-01-16 12:01 | 宗教

三位一体(ソース不明)  <記事引用>

「三位一体」という言葉をときどき聞くことがある。聖書のどこに書かれているのかと言えば、それは、文字通りには書かれていない。しかし、「奥義」と言って、書かれていない教理があるという。つまりそれは、間接的に書かれていて、そのように推測されるのだ。三位一体は、この奥義に含まれる。
 例えば、マタイの福音書28章19節には、「父と子と聖霊の御名によって洗礼を授けよ」とあり、またヨハネの手紙第一の5章には、証しをするものが三つあり、それらが聖霊と水と血であり、これら三つのものは一致すると書かれている。
 しかし奥義と言えども、三位一体は、決して突飛な考えではない。それは、オーソドックスな信仰から、聖書に従って自然に考察することにより帰結する面もある。まず聖書によれば、父なる神と子なるキリストは、二つでありながら一つであり、同等の神であることが読みとれる。父なる神は、御子にすべてを与えられたし、御子ご自身も私はすべての権威を授けられたと言っている。しかし彼はまた、私は父によらなければ、何事も成し得ないと言われた。このように父と子は一体なのである。
 それでは、聖霊についてはどうなのか。第一に、主イエスは、「私は、あなた方を捨てて孤児とはしない。またあなた方のところに戻って来る」と言われ、「聖霊が来るとき、私があなたがたに話したすべてのことを思い起こさせる」と言われた。さらに主イエスは、聖霊を汚す者は永遠の罪に定められると言われている。そのように聖霊と主イエスすなわち御子もまた一体なのである。
 しかし、上記のことがあったとしても、なぜわざわざそれらのことから「三位一体」という教理を導き出さなければならないのだろうか。それは、一つは異端への対処である。父、子、聖霊の三つが一つの神ではないと仮定すると、キリスト教は多神教となってしまう可能性もある。反対に、御子が神でないとした場合には、エホバの証人が言っているように、彼は天使だということになり、キリスト仮現説(肉の体を持たないという説)に陥る可能性が出てくるか、または、人間崇拝となる危険性もあるだろう。
 しかし私は、三位一体の本質は、その信仰規定の形態だと思う。この教理から、すばらしい信仰がもたらされる。それは、私たちから見た場合、御子を中心としたものとなる。まず、御子が唯一の神であるゆえに、御子以外の人間が神とされることはない。また、御子が人間でもあるゆえに、私たちは、神に限りなく近い存在である。私たちは神の子であり、神を父と呼ぶことを許されている。また、聖霊が神であるゆえに、私たちには神の思いが与えられており、御子にも限りなく近い存在なのであり、この世界を御子のように生きることが可能とされているのである
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by hanamizukidayo | 2008-01-15 21:39

「心を強くするメッセージ」 より



主よ、今日もこの一日を感謝をもって始めます。どうぞ無事に感謝を
もって終わらせてください。

人の一生は、傷を負い荒野のなかをさまよい歩くようなものです。希望が
失望になり、失望が絶望になり、絶望が「無望」となってしまいます。無望
とは生きている屍の事。 しかし、絶望のために試みることをやめないように、
無望のために「心」を奪われることのないように――人の望みは「欲望」です。
 見える望みを追いかけるから失望・絶望に陥るのです。無望になって
そこから這い上がることです。見えない望みが見える様になるかもしれません。


   
◆◇◆◇◆◇◆ 「泣く者はさらに不幸になる」  ◆◇◆◇◆◇◆

 悲しみが喜びに、苦しみが楽しみに「変わ
り」行くことが人間であり人生です。
 人の世は地獄です。このことをしっかりと
 悟りきらなければ、悲しみや苦しみは生涯ま
  とわりつきます。地獄を泣くのみです。
 
「私は四方から艱難をうけても窮しない。途
  方にくれても行き詰まらない。迫害に遇って
 も見捨てられない。倒されても滅びない」
 
悲しみや苦しみがなぜあるのだろう。つま
りなぜ私だけが不幸なのだろう、と不平・不
 満を言いつのる人は、窮しない・行き詰まら
 ない・見捨てられない・滅びない、という恵
みが与えられません。「なぜ」ではなく「ど
  う」変えていくかが現実の問題です。

 悲しみが喜びになるのは簡単なことです。
あなたが持っている「喜び」を数えあげるこ
とです。一つの悲しみのために無数の喜びが
 見えなくなっています。苦しみも同様です。

地獄が天国になるのは、この小さな発見で
 す。天国は喜びを積み上げていく所です。

――――――――――――――――――

子宮筋腫の発生原因は解明されていないものの、すべての女性が子宮
筋腫の芽を持っているであろうことは指摘されています。そんな中、子宮

筋腫を発症する人と発症しない人がいるのは、なぜでしょうか。
その違いを生んでいると考えられているのが、免疫力なのです。つまり、
免疫力が高ければ、ガンや子宮筋腫の発症リスクが下がるというわけです。

では、高い免疫力を維持するには、どうすればよいのでしょうか。
免疫力を低下させる原因に、活性酸素があります。過剰なストレスや
不規則な食生活、喫煙、無理な運動などによって発生した活性酸素は、
細胞や血管を酸化させ、私たちの身体を鉄さびのようにボロボロにして
しまいます。

その結果、私たちの身体は風邪やその他のウイルス感染をはじめ、子宮
筋腫やガンのような重大な病気にかかりやすくなってしまうのです。ですか
ら、活性酵素による負担を身体に掛けないことが、高い免疫力を維持
することにつながるのです。
       さあ、ウイルススキャンをしましょう。
>
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by hanamizukidayo | 2008-01-15 17:42

「いばら」とは

クリスマス以来、日曜毎の教会礼拝に通うようになりました。
牧師さんもその奥さまも、車椅子の生活を余儀なくされている不自由な御身体
にも関わらず、
毎週の礼拝室を整え、新年礼拝日なら新年らしい雰囲気の
お花を活けて迎えて下さり、本当に心が和みます。

今週は入った途端、思わず目を見張ってしまいました。先週、心ばかりの感謝の気持ちで
バラの花束を持参したのですが、もう枯れただろうと思っていたのに、奥さまが添えて下
さった白い桜と、色鮮やかなピンクのバラが絶妙のコンビネーションで飾られていたのです。
年をとっても身体は不自由でも、神様への感謝やもてなしの美しい心遣いを感じて
見惚れてしまいました。

教会では一緒に昼食を摂ります。お手伝いしたいと思い、早目に家を出ましたが、
着いた時にはもう全部終わってしまっていました。「食事をどうぞ」と誘われても、
新参者なのでちょっとそこまでは・・と、これまで遠慮していましたが、今週は一緒に
戴きました。牧師さん夫婦と二人の教会員。集会の人数はささやかですが、牧師さんの
お話は毎回感動の連続です。


【種を蒔く人」のたとえ】 走り書きでメモしましたがニュアンスの違いもあるかも
                しれませんので悪しからず。

岩地やいばらに蒔かれた種が根を張らなかったり、誘惑や患難で成長が止まって
枯れるのは「伝道の失敗」と言う人もいる。神さまからの賜物持つ人間にイエス様が
「人格の感化を」と言われたのではない。「私に従っていきなさい」と言いながら、ご自分の人格
の感化で人を救おうとはされなかった。ある立派な牧師がいて、その教会が発展する
ことは良いことであり、その牧師に感化されるのも良いことではある。しかし、牧師信仰
となると、その人の信仰はどうなるかということを考えなければならない。

感化されることには良い点と悪い点があり、自分の個性が押しつぶさるような圧迫感を
感じることがある。しかし、イエス様は立派な人格者であ
ったが、み言葉で人を導いて下さった。み言葉であった。「私へ」の感化ではなかった。
      *だから聞き方に注意を払いなさい(20節)


いばらは低木や弱い植物を覆い、保護する働きをみせかけているが、
本当は弱い植物を締め付け弱らせる。

    *導かれる側の主体性をイエスさまは大切にされる。

伝道の失敗は神さまの失敗ではなく、み言葉を持ち去っていく悪魔による(12節)
耕やされるのは神さまである。

 
  
いばらの地とは聞いた人、つまりみ言葉を受ける側の心の問題だと決め付ける一方的な
説教ではなくて、み言葉を「主体的に聞きなさい」というメッセージでした。
神さまに耕されたいという思いに満たされました。感謝します。

補足予定
「種」について追記を予定しています。
  
 
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by hanamizukidayo | 2008-01-15 15:51 | 宗教

岩地やいばらの中に落ちた種

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
神のことばは「種」。「種を蒔く人」はイエス・キリスト、その弟子。実を結ぶのはどのような土地(みことばを聞く者)に種が蒔かれたかによる。
「道端」に蒔かれた種。みことばを聞くことは聞いた。しかし、サタンが邪魔をして信じさせない。「岩地」に落ちた種。聞いたときは喜んで受け入れ、みことば通りに生きていこうと決心し、歩み始める。しかし、困難や迫害などの大きな試練に耐えられず、その結果神から離れてしまう。
「いばらの中」に蒔かれた種。みことばを聞いて信じたが、神の国よりもこの世の富や名誉や快楽の方に魅力があり、誘惑に負けてしまう。神のこどもとして実を結ばない。
「良い地」に蒔かれた種。みことばをしっかりと聞き、それを悟る人。みことばを信じて行う人。迫害、試練、誘惑に負けず、信仰を持ちとおす人。良い実を結ぶ。

種を受けてから実を結ぶためには何が必要か。それは、「良い地」を持つ者の態度である。すなわち、「正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(ルカ8:15)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・…・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

今週の礼拝で扱われた聖句は、上のルカ8:9~15節の「種を蒔く人」のたとえでした。

エホバの証人であれ教会であれ、心に蒔かれた種(御言葉)が芽を出し成長するよう、
正しい態度・心で御言葉を受けるようにと「励まされる」聖句なのでしょう。
教会の教えに精通して入るわけではないので、もし間違っていたらすみません。

主イエスの教えとは言え、正直なところこの箇所は、素直に読めなかった私でした。
読んで字のごとく、その通りなのかもしれない。けど何か引っかかるものを感じて
いました。はっきり言えば「良い土壌かどうかはその人だけの責任ではないでしょ」
そのような抵抗を感じていたのです。人格の変化を「強制」されるような重い圧力を
特にJW時代味わった聖句でした。
「三つ子の魂、百まで」と言われるように、生まれ育った環境で本人が望むと望まないと大方の
性格は方向付けられるのではないか。少なくとも自分に限って言えば、決して自分が「良い土」のような心の持ち主だとは思えない。
しかし一方、欠陥だらけの罪人に過ぎない私を見放さず、霊的に助け導かれる神の聖霊
が働いてくださっていることを私は確信します。、どうしようもない自分にギリギリ愛想を
尽かさないよう、イエス様はそんな私を励まし慰めてくれるていると。
何が言いたいかと言うと、人の心が岩地だろうといばらが生い茂った地に見えようと、つまり
その人がどんな生き方をしてきたか、どのような人となりかどうかに関係なく、イエスさまは受け入れて下さる。ザアカイしかり。悪霊に囚われた人々しかり。
それだから、このたとえ話の聞き方には注意しなきゃ、と考えていたのです。

(続く)
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by hanamizukidayo | 2008-01-14 12:06 | 宗教

ニュースより

沖縄2紙と朝日新聞が受賞=新聞労連ジャーナリスト大賞
1月11日18時1分配信 時事通信


 日本新聞労連は11日、昨年1年間に平和・民主主義の確立や、言論・報道の自由に貢献した記事を表彰する「第12回新聞労連ジャーナリスト大賞」に、琉球新報と沖縄タイムス両紙の教科書検定をめぐるキャンペーンと、朝日新聞の連載「新聞と戦争」を選定したと発表した。
 沖縄2紙は、教科書検定で沖縄戦における集団自決について、日本軍強制の記述が削除された問題を追及。朝日新聞は新聞の戦争責任を直視し、「負の歴史」を検証した点が評価された。

http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_date3&k=2008011100788


*新聞労連とは、 全国の新聞社と通信社に働く 労働者の
約8割が加入する 日本で唯一の産業別労働組合のこと。


自国の歴史を「負」と断罪し、戦後60年経っても日本が置かれた「自己防衛」の為に
戦わざるを得なかった当時の決断と苦悩の歩みを、「正義」と称し
断罪するリベラリストを自認する新聞ジャーナリスト業界の驕慢。
次第に明らかになった事実にさえ耳を閉ざし、自説の「正当性」に固執する団体。
事実を欺き、国民を誤導し洗脳し、日本人のアイデンティティを破壊しこの国を
どこに向かわせようとするのか。
いかに恵まれているか、もっとよくするためどうすればいいのかといった方向性への
想像力もなく、自らを反省し恥じるかけらもないのだろうか。

どこかの宗教組織に相通じる「自分たちのみが正しい」という絶対的な盲信。
自己満足と優越感に浸るばかりで、間違は間違いとして認めつようという
謙虚な意思のかけらも無い姿に、共通点を連想してしまう。

真実を曲げようが、ご都合主義の自己評価・自己満足のためなら何を主張しようが
「そんなのは関係ねえ」という奢りにしか見えないのだが。
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by hanamizukidayo | 2008-01-13 01:22 | 政治・社会

後で分かるようになる

主イエスが愛の人であるならば、弟子の一人が罪の苦悩に抗しきれず裏切りに落ちて行く、その有様を静観するのではなく、なぜ彼を守り導かれなかったのか、そもそも神の御子がこの世に来られたのは、ユダに代表される罪に苦悩する人を助け出すためではなかったのか、そのような問いを抱くのは不遜に当たるのでしょうか。 ユダとて単に金(マタイ26:15)や畑が欲しくて(使徒1:18)、うれしくて、楽しくて、裏切ったのではないはずです。 苦悩しつつ後悔しつつ行くべき所へ向ったことでしょう。
 これまで繰返し「時はまだ来ていない」(ヨハネ2:4,7:6,8:20)と言われたのですが、ここに至って「この世から父のもとへ移る御自分の時が来た」(13:1)ことを告げます。 主イエスが栄光をお受けになる時、すなわち十字架の死が切迫しているのです(12:23,17:1)。 

 過越祭の前、最後の晩餐の席に着く時に、主イエスは弟子たちの足を洗いました。
 旧約の昔から、食事の前や外出から帰った時、客として迎え入れられた場合などには、自分の足を洗うのが定めでした(創世記18:4, 19:2,24:32,士師19:21)。 しかし他者に自分の足を洗わせることもありました。 この場合、洗足は奴隷の務めでした(サムエル上 25:41)。
 主イエスは奴隷と変わらない姿で、僕となって身を屈め、弟子たちの足を洗い始めたのです。 
ペトロは洗足の訳をさっぱり理解できぬまま「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」 「わたしの足など、決して洗わないでください」と辞退しました。 彼の狼狽振りが伝わってきます。 それに対する主イエスの諭しは「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」ということでした。 
 
 師が弟子たちの足を洗う行為は、単に謙遜な生き方を教えるためではないでしょう。 この後すぐに起こるご自分の十字架と死に密接にかかわっていることは確かです。 父のもとに移る時が来たことを悟ったがゆえの行為でした。
 ペトロと他の弟子たちには、洗足もその後の晩餐で割かれたパンとぶどう酒の意味も、分からないままでした。 御子イエス自らが贖罪の小羊となって十字架に付けられるということについてはなおさらです。 わたしたちは教会に集い、聖書を繰返し読み聞きしているので、この後の十字架や復活の展開を先取りできますが、もしこのわたしも洗足の場に、弟子の一人に加えられていたとするならば、ペトロと同じように勿体ない、畏れ多いことだと辞退したに違いありません。
 事柄は弟子たちに理解されぬままでした。 しかし弟子たちの理解度に並行して、神による救いの計画が進んだり止まったりするのではありません。
 わたしたちは信仰者として生きていながら、自分自身の人生においても、うれしいことも悲しいことも、出会いや離別、罹病や事故など、なぜそれらが自分に降りかかるのか理由が分からないことが多いのです。 理解できないままで不条理を経験せねばなりません。 理解できぬからといって時間は止まってくれず、日々次々に良いことも悪いことも、起こります。  
 弟子たちが理解できぬままで、しかし天の父の側では救いの御業が着実に進められて行きます。 「今は分からないでも、後で、分かる」(13:7)それで良いのです。 後になれば「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(14:26)からです。

http://www.eonet.ne.jp/~comet/index.zen.2007.03.htm



上の記事は、最近読んでいる教会サイトのメッセージの一こまですが、強く心に響くものがあります。どうしてあのような宗教を「選び」だらだらと貴重な時間を費やしたのか、どうして他の人達まで巻き込んでしかもそれが最善の生き方だと伝道して回ったのか。心底悔やみますが、自己弁明や自己否定ではなくマイナスの思考パターンを変えていくには霊的に健全な思考で聖書を捉えなおすことが本当の癒しだとつくづく思うこの頃です。
愚かさに悩み苦しんだとしても、必ず「後で分かるようになる」と仰る主イエスの平安を待ち望みます。
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by hanamizukidayo | 2008-01-12 09:01 | 宗教