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 今を 生きる  

            本日の名言 


    
      未来は偶然ではない、    

      未来は或る程度まで現在を生きる時の勇気と、    

       事に当っての正しい選択とによって決定される。                        

                    



                           福永 武彦 ―     (『風土』)


この言葉は年齢に関係なく、生きる者すべてに当てはまるような気がする。
死ぬ直前まで、どんな状況にあっても'現在(今)を生きる'人でありたい。
                         
そう思わせるような出来事があったせいか、「今日の名言」に頷いてしまいました。



「クリスチャンになる機会はなかったけど、もし'あの世'というものが
あったら、先に逝った主人に会った時にね、恥ずかしくないように生きたいの」

好奇心旺盛で趣味も楽しみながら、しかし一方では身体の衰えに
抗わずに、身辺整理を楽しんでいるようにさえ見えるある婦人の
言葉です。

「うふふ、先生らしいですね。ご自分の美学を貫いておられますもんね」
そう答えれば
「あなただってそうよ」と返ってきました^^;


この方の紹介で、3,4年前にカトリックのシスターにお会いした事が
あります。初対面とは思えないほど親しみを感じ、会った瞬間に
どちらからともなく駆け寄って思わず抱き合ってしまいました。
「3年経ったら、帰ってきます」と残し、ペルーの貧しい少女達の元に
再び発たれました。

あれから3年経って届いたお便りには、荒れ野に辛うじて建っているように
見えてしまう小屋のように質素な建物の前で、微笑んでいらっしゃる先生の
写真が入っていました。恐らく、現地に骨を埋める覚悟なのでは
ないかと感じます。物も自然も豊かで、恵まれた平和な祖国への
望郷の念はすでに絶ち切った無言の意思が、柔らかな微笑みの
中に宿っているように思えてなりません。

勇気ある決断、主への思いと勇気がどれほど試されたことでしょう。


身辺整理の婦人(私は先生と呼んでいます)と、よくシスターの
話になります。
先生・・
「ミッション系の大学(上智)を出てクリスチャンに
なる時も、彼女のお母様は大反対だったけど、
私は応援したのよ。でも、私の教え子がまさか、
地球の裏側まで行くとは思わなかったわ」
私・・
「00先生はもう帰っていらっしゃらないと諦めたので、私は他の
教会に通うことにしたんですよ」と話たら、知り合いの、教会員
だというお友達に電話かけて、
先生・・
「こういうわけなので、ぜひこの方
の教会の皆さんのためにボランティアコンサートを開いて欲しいの。
音楽がお好きな牧師さまだそうよ」

トントン拍子で話が進んでしまいましたが、堀田力氏の
さわやか財団に所属する有名クラシック歌手の方が、
要請があれば、全国どこにでも出かけるボランティアの活動を
しておられるのだそうです。
カトリックではなくても、  
「こういうお話は大歓迎よ。嬉しいわ!」

と電話の向こうで弾んでおられました。


電話の一声で全国にいる先生の知人たちが動いてくれ、教会同士の
交流のさわやかさや、音楽を愛する牧師先生のためにあれよあれよ
と言う間に話がまとまっていく。何だか凄い!
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by hanamizukidayo | 2008-02-06 17:26

あれこれ あれこれ

今日もまだ雪が残って、足元は冷えますが、立春らしいやわらかな日差しに和みました。ビンチヒッターを頼まれ、先週行った仕事先に今日も行って来ました。海岸線を車で走ると、残雪の向こうにキラキラ輝いた海が広がって、思わず写真に収めたい程、素晴らしい景色を眺めながら、こんな日には良いことが待ち受けていそうな予感。いや、調子に乗らずに、落ち込んだらここに来ればいいなとか、助手席であれこれ思いました。最近夫や子供が、タイミングが合う日は送迎してくれるので、随分楽しています。

自分の車を手放しから、電車やバスを利用するようになりました。歩くのは全然苦ではないのですが、時々顔見知りの証人に会うのだけが困ったものです。
先月から同じ時間、同じ電車を利用している姉妹がいることが分かり、最悪だと思っていました。彼女は途中の駅から乗って、先日気が付いたばかりなのですが降りる駅も一緒なのです。
過去にいろいろとあって、二度と会いたくない一番苦手な姉妹でした。相手も私を大嫌いだと思います(>_<)
本を読んでふと目を上げたら真向かいの席に座っている姿を見た時は、腰を抜かす程驚いてしまい、相手は気が付いていたのかどうか知りませんが、そ知らぬ顔で同じく何か読んでましたw
その日は隠れるようにぐるっと回ってホームを降りましたが、今後の事もあるし、しばらくどうしたものか考えました。

でも、何もコソコソする理由などないわ。驚きはしたけれど、もう動悸はしなかったしさほど不愉快さも感じなくなっているので、過剰に意識せず普通の他人だと思うことにしました。それに、
「まだJWやっているのね、可哀想に」という考えは、結局「自分以外の他人を見下すことと同じ
で、大嫌いな組織と変らない態度だ」といい事書いてる元一世姉妹の言葉にぐっと来て、切り替えることが出来そうです。

いつもなら出たついでにショッピングしたり、友達と待ち合わせしたりするので、ついつい帰りが
遅くなってしまうのですが、今日は気になるブログが幾つかあったので早目に帰宅しました。
それに、ネコちゃんたちのお相手もせねばっ^^
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by hanamizukidayo | 2008-02-05 15:20 | 日常

気分障害と私

メンテナンスでもないのにどういう訳か、昨日から
使っているブログの立ち上がりが重くて、投稿欄
もなかなか開けない状態でした。

自分の記事なのに、読み返すと気恥ずかしくなって
しまい、「早く次ぎの記事に飛ばしたい!」
そう感じる記事が冒頭にある時に限って
更新できないのは何なのでしょうか。

それはともかくとして、あちこちのページを回り
コメント残したりして過していましたが、
やっと今
開けたところです。

先日、研修を受けに行ったことでも
書こうと思います。
もうすぐ私の大好きな「日本の歌」が始まる時間なので
ササッと書きます^^

ササッとと言えば、欝の時ですが
何かを書くなんて、とんでもなく難しいですね。
経験した人なら幾分分かって貰えるかもしれません。

物事になかなか集中できません。
話し方も動作も普段より重くなって
言葉そのものが浮かんでこないです。
意欲もなく、すべてが悲観的になって
自分は何て価値のない人間だろうと
どうしようもなく落ち込んでいきます。
眠れない、食べたくない・もしくは食べ過ぎるw
やたらに疲れます。


私の場合は何かきっかけはあるのですが、
後から思えばああそうだったのかという程度の
もので、それは突然やってきます。
一定のサイクルなので、慢性化したのかも
しれませんが気長に付き合うしかありません。

昨日まで楽しく会っていた友達にさえ
急に話すのも億劫になるので、
すごくわがまま自分勝手人間だと
思われているかもしれませんが、
結構バリバリの頑張り屋さんの友達にも
欝の経験ありという人がいるもので、
それほど心配せずとも適当に放って
いてくれてるんじゃないかとも思っています。


研修内容は精神病についてだったのですが、
講師が大学の先生の時って、この手の内容で
興味深く面白く聴いたことは一度もありませんね。
失礼ながら、ちょっと本を読めば分かるような、
一般的な話がほとんどで目新しい話をしてくれる
人はそうそういないように思います。

先日もそういう典型的な内容だったので
レジメも取っておきたいほどの気持ちには
なりませんでしたが、なるほどーと思った
こともありました。

一つは昨年の松岡元農水大臣の自殺報道の事でした。
WHOによれば、個人の自殺を公表することはタブー
であるのに、そのガイドラインを全然守っていなくて
先進国から呆れられているんだそうです。
そういう意味では日本のマスコミは先進国でも
最悪で、大臣の自殺をが新聞一面に載るなど
呆れた話で、世界の笑いものだと怒っておられました。

たしかに・・

もう一つ、これはまあ個人的にあまりにも当てはまって
いたので思わず笑ってしまったのですが、

「欝になると記憶力がないというでしょう?
でも、ハナから頭に入っていないんですから
情報の引き出しようがないんです」
と、念押しされましたw
ちょっと複雑、かつほっとした?次第でした。

講師先生のことを辛口で書いてしまいましたが、優しそうな人だったのにゴメンなさい。
場に合わせた話だったらもっと良かったと思いました。
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by hanamizukidayo | 2008-02-04 22:08 | 日常

求めていたのは祈りだった

JWの教えと組織の体質に心底幻滅し、
人間関係のトラブルに巻き込まれた事も
加わって以来、約5年悩みに悩んだ末、
私は自然消滅の形で組織を離れました。

一旦入信したら最後、組織からきっぱりと離れるのは難しい
これはJW経験者なら誰でも経験しますように、苦い時間の経過が
必要です。
形上では離れる事が可能であっても、長年刷り込まれた教理の呪縛。
親族、友達、家族・・関わってきた様々な人々への思い。
それらを断ち切る決断に身がすくんだ事もありました。

自分の過去との決別も意味します。
良いものだと信じてすべてを注いできた(約20年)の
努力と、それが間違ったもので、多くの人に迷惑をかけてしまった
事。あらゆる面で後悔の念が募りました。

決別する前に、打ち消せない疑念は固まっていましたが、
どうにもできないところまで来てしまったという思いと、
これからどう行動していけばよいのかと言う狭間に立ち、
なお且つ、不活発になった「弱い人」というレッテルを貼られ
会衆の人々の冷たい視線の中で針のムシロに座ったような
JW最後の5年でした。。

精神を病み、通院を続けながら心理学や本を読みました。
インターネットでこの問題を調べるようになって、初めて自分だけ
の問題ではなかったこと、
私以上に悲惨な経験をし、回復に向け闘っている仲間たち。
また、すでに克服し他の人達を助けるために精力的に情報を
発信していらっしゃる元二世さんをはじめ、力を頂いたサイトの
数々・・管理人さんたちの惜しみない努力に深く感謝します。

JWから少しでも距離を置きたいという事と、社会で
何かできることがないかと、考えるようになってから
私はJWの伝道をさぼり、ボランティアの方に時間を
割くようになりました。

義父の介護を通して親身に動いてくださった民生委員さんや
施設の職員の方々、病院関係者・特に認知症が進んでいく
義父の症状に戸惑いや不安を抱えていた当時、精神的な
サポートを与えてくださったのは「愛があるはずの」JWではなくて、
彼がが普段「サタンの世の人」と、内心見下していた
世の中のたくさんの善意の方たちでした。

やがて私も県や市の社会福祉センターにボランティア登録し、
講習を受けながら地域の要請や施設等に出向いて
いました。また希死念慮を伴ううつ病の苦しさを経験した
ので、自殺問題に関心を寄せ、命の電話相談員の講習も
受けるようになりました。

ある時、日本WMCAの講師に出会い、ボランティアは素晴らしい
行いであるけれど、「ボランティアであっても一定の責任と
自覚を持つように。待っている相手に、自分の都合で行かなかったり
ルーズにしていたら信頼を失います。相手を傷つけてしまいます」

そのような話を聞いたのがきっかけになって、
自分に甘く、どちらかと言えば出不精な私は
「仕事」という枠に身を置いて、専門的な知識を学び
ながらやっていくほうが自分には合っていると思う
ようになり、一つの活動だけ残しボランティアからは
遠ざかりました。

この頃はまだJWに二股をかけた時代でした。
約、10年ほど前に現在の職場に入り
介護保険制度が発足すると同時に
障害者支援に主にたずさわりました。
04年から精神障害者の居宅支援も始まり、
関わりたいと願っていた仕事に就きましたが、
身体的に限界を覚えるようになり、数年前から
もっぱら高齢者のケアを中心に働いています。

でも、内容的にはほとんど一緒です。
高齢者のうつも大変多く、特に独居で
あまり親族も尋ねてこないケース、あるいは
難病のために1日中常に身体の痛みと闘っている方、
症状進行に不安を抱え、また見守る家族も介護の
ストレスや元々の家族関係の複雑な経過ゆえに、
葛藤を抱えた家族もあれば、本人に代わって上げられない
もどかしさに心を痛める優しい家族もいて、
人生の最終部分の最後まで、様々な個人のまた家族の
ドラマがあると実感します。

恐らく、この仕事に付かなかったら出会う機会はなかったであろう
方たちとの出会いは、私を励まし、考えさせ、生きる事
の教訓を日々教えていただいています。
今日が最後のケアになるかも知れない。私か相手の方
の身に何が起こるか断言は出来ないので、毎回これが
最後であっても悔いのないように心を込めて相手に
向き合きあう、自分に出来る最善を尽くして向き合う。
失敗は仕方ないですが、内心は真剣勝負で仕事しています。
おかげで帰宅すると身体はヘトヘトですが、JW時代のような
虚しさは微塵もありません。


聖書の事も信仰も、じっくり考える時間もない時期がありましたが、
いろんな経過を通して、今再びまた違う角度から「信仰」について
考えるようになりました。

私の心の奥底に常にわだかまっており、どんよりと
影を落としていた、「本当の神さま」とは・・という疑問に
今、やっと光が射さしています。

エホバの証人でありながら、「エホバ」という神をどうしても
好きに」なれず、理屈で愛そうと努めたエホバ時代でした。
ですから集会や奉仕などの「形」で自分なりに示し、
受け入れてくださいと祈るしかなかったのです。

本当の父親に愛情が持てなかったから、父なるエホバ神を
親しく思えない、自分の側の問題だとずっと考えていました。

イエスを愛し、その教えには心から感動できるのに、
神を拒否する心、これも自己否定的心理に陥ります。


昨年のある時期に、自分の心を正直に吟味するようになって
「本当の神さまを私に示してください」と祈るようになりました。
祈りは、ある方を通して聞き届かれ、彼女の友人達も私の
ために共に祈ってくださったと聞きました。

求めていたのは、現実の世界で一緒に祈りあう人々でした。
まず、祈り合う友を、私は切実に必要としていたのです。

与えてくださり、この祈りを聴いて下さった主に感謝します。


今朝は朝から雪が降っています。

今、私の心が洗われるように、清い信仰に立ち返る助けと
なって下さっている荒野のモーセのような牧師先生の教えを
請いにこれから出かけてきます。

今日、訪れて下さった皆さんの幸せを祈りつつ

一気に書いたので、一部帰ってから訂正するかも知れませんが、
誤字乱文ありの長文、読んでくださってありがとうございます。

               愛を込めて
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by hanamizukidayo | 2008-02-03 09:06 | 宗教

イエスの神聖と三位一体

はじめに

クリスチャンは普通、新約聖書に記されたイエス・キリストは神であると信じています。
この方を神として崇拝してきました。クリスチャンはまた、聖書の神が三位一体の神であると信じてきました。確かに不思議なこと、人間の理性で完全に理解する事はできませんが、神はただ一人の方ではありながら、イエス・キリストが「父」と呼んだ「父なる神」と、そしてキリスト自身、さらに目に見えない神の霊、「聖霊」とか、「御霊」と呼ばれる方が、それぞれ神であるとしてきました。

「父」と「子」と「聖霊」は互いに区別される存在でありながら、決して「三つの神」ではなく、愛の交わりのうちに相互に内在し、一体であるという「三位一体の神」こそ、聖書の教える神であると信じてきたのです。キリスト教会は、3千年に渡って、イエスが神であり、神は三位一体であると告白してきたのです。

こうしたキリスト教信仰に異を唱える人たちはいつの時代にもいました。キリストは「神のような存在」ではあるが、あくまでも被造物であるという主張もありましたし、三位一体の教えは教会が後になって生み出したもので、聖書そのものの教えるところではないという主張もありました。

そのような人々の中で、今日最もよく知られているのは「ものみの塔聖書雑誌協会」(以下・「ものみの塔」の教えを信じている「エホバの証人」たちでしょう。
新約聖書はイエスを「神」とはしていないし、「三位一体」の教えも聖書に語られていないと厳しく教え込まれていますから、そのように信じきっています。しかし、「ものみの塔」の教えは本当に聖書の教えでしょうか。

   (略)

この小著を通して、聖書が教えている神がどのような方であるか、どれほど素晴らしい方であるか、知っていただくことができますように。


 内田」和彦  キリストの神聖と三位一体・・・・・・・・「ものみの塔」の教えと聖書の教え
                    

       …・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



この本を読んで私は、聖書の本当の神さま(父なる神と子なる神イエスと御霊)の理解を深めることができました。これまで探してきた答えが分かりやすく集約されおり、思いもかけないことでしたが「ものみの塔」の神を信じ、その神に仕えることがどれほど内面の矛盾と苦しみを引き起こすものであったことか、納得のいく答えを得ることができました。

教会が変っただけで同じ神さまを崇拝しなければならないなら、そのような信仰は私にとって
苦痛やストレスに他なりませんし、もしそうであれば意味のない信仰、また偽善者になりかねませんでした。

しかし、ずっと以前から第六感とでも言えばいいのか、聖書の本当の教えはこうではないのかな・・とイメージしていた神さまについて、この本で「その通りだった、間違いなかった」と確認できました。神さまの素晴らしいプレゼントとしか言えない喜びを感じます。

難解な部分もあるかも知れませんが、もし共感して下さる方がおられたら嬉しいですし、神さまについて考えておられる方に目を止めてもらう機会があればと考えて、新しくカゴテリーを追加しました。

参照聖書   新改訳  新共同訳  ギリシャ語聖書本文(NovimTestnmemtumGrtece)
 

以下の記事は本文のまま掲載していく予定です。   2002/2/3


「ものみの搭の不適切な聖書解釈について」…………………………………

今日、「聖書を信じる」と言いながら、イエス.キリストが神である事を認めず、また、聖書の教える神が三位一体であることを否定する代表的な存在は、「エホバの証人」と呼ばれる人々です。彼らは「ものみの搭」の組織から、そのように教え込まれています。

自分たちこそ聖書の忠実な解釈者であって、既製の教会に集うプロテスタントやカトリックの信者たちは聖書を全く理解していないと徹底的に教育され、そう信じきっているのです。

聖書は本当にイエスが神であると教えていないのでしょうか。また三位一体の神は聖書とは無縁な作り事なのでしょうか。

神が偽ることのできない事柄(以下事柄と略します)
あなたは地上の楽園で永遠に生きられます(楽園)
あなたは三位一体を信ずるべきですか(三位一体)
といった文書に展開されている議論を取り上げ、それがどのような点で聖書の教えから離れているかを明らかにしていきましょう。


1 イエスは神でないという主張


イエスは神ではないという「ものみの搭」の主張は「楽園」39-40頁に見出だされます。その議論は単純で、以下の七つのポイントが羅列されているだけです。かっこ内は根拠として挙げられている聖句です。

(1)イエスは「私は神である」と言っていない。
(2)イエスはむしろ「神の子」と呼ばれている(ヨハネ10.34-36)
(3)イエスは「父はわたしより偉大な方です」と言われた
  (続く)
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by hanamizukidayo | 2008-02-02 20:15

20世紀の名言より

∞∞∞∞ 本日の名言 ∞∞∞∞∞    


 君自身が心から感じたことや、   

 しみじみと心を動かされたことを、   

 くれぐれも大切にしなくてはいけない。                  




    ― 吉野 源三郎 ―                    (『君たちはどう生きるか』)




いい言葉だなと思います。

タレントさんがちょっとこぼした言葉に
「ヒドイ~」とか
「悲しくなりましたー」
などと責める
過剰反応の声は
耳に栓でもして

もう
自分の
心が求めるものを
素直に
受け入れ

静かに生きていきたい



「こんなひどい目にあった」

不幸自慢の時代が
遠ざかっていく・・
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by hanamizukidayo | 2008-02-01 22:31