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聖書学者は新世界訳をどう評価しているか

http://www.geocities.com/Athens/Agora/3207/nwt.htm
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by hanamizukidayo | 2008-03-31 12:33

三位一体のカテキズム・キリストの王国ネットワーク

大変参考になったサイト、感謝。


三位一体のカテキズム完全版PDFファイル添付のサイト

http://www.geocities.jp/jmc_megumi/faq/sanmi.htm




キリストの王国ネットワーク

http://www.geocities.com/Athens/Agora/3207/megusuri.htm
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by hanamizukidayo | 2008-03-31 10:39

組織支配の構造

欠陥聖書新世界訳
http://www.stopover.org/lib/Kanazawa/Kekkan/index.html


オアシスより
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/6470/NWT-fabricated.html




新世界訳研究会
http://homepage2.nifty.com/ichikawakita/witness/shiryo
u.html



http://www.jca.apc.org/~resqjw/verse/mattew.htm
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by hanamizukidayo | 2008-03-31 09:46

神権ファシズム

29日夜のNHKで(負の)世界遺産アウシュビッツ強制収容所の番組で、「人間は人間に対してこれほど非道なことができるのだろうか」と言う時空を越えたメッセージを伝えていた。

元被収容者だった人の言葉:「アウシュビッツで最初に聞いた言葉は『働けば自由になる』だった』それが嫌なら"別の道"がある」そういって煙筒を指差さされたそうだ。


  ARBEIT MACHT FREI(働けば自由になる)

 そのスローガンは今も収容所の入口に残っていた。

"命の限り規律と規則をよく守り" 働くなら自由があると保証する
 死の収容所の達成不可能な条件・掟。
 
 何よりも優先されるべき「取り決め」は
 過酷な規律と規則の遵守
 



  規律と規則を遵守する

  どんなに理不尽な要求も抗うことは許されない。
  極限状態の下ですべてを即座に判断し決定する。
  「生きるとは選択することだった」とフランクルは書いていたと思う。
  また「夜と霧」には人間には2種類の人間がいるとも言っていた。
  
 
  支配する側と、支配される側の2種類だと言いたかったのだろうか。
  

  
  今もナチスのような独裁国家に苦しんむ民族が常に存在している。
  人々の信仰また生活を教義で支配する組織も存在している。
  
  

  
 「・・・すべきです」 「このことから・・したいと思われることでしょう」
 強くあるときは柔らかく言葉を選び使い分けしながら「ご意思のため」
 に画一的な行為を促がす指導者。
 
 
 従わないなら霊的な死さえ宣告でき、自分たちだけが
 神の権威を与えられたと自負する監督達。JWは
 「取り決め」という名目で人間を縛るファシズム宗教
 

 
             
            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

  


         
            ものみの塔協会の体質と新世界訳聖書(金沢文庫)http://www.stopover.org/lib/Kanazawa/Godou/chapter1.html
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by hanamizukidayo | 2008-03-29 23:57

愛情停止処分  


幼子はまだはっきりと意識できるようになる前に、秩序としつけとを感じていなければならない幼い頃にそれに慣れていれば、問題なく 

習慣づけを行うことができ
、感覚的な利己主義の発揮する支配欲を押さえつつ、意識の目覚めの時期に移行できる。

すなわち、従順を身に付けさせねばならないわけであるが、そのためには教育する者が
その力を正しく発揮せねばならぬ

厳しい目つき、はっきりとしたことば、時には物理的な力を使う必要もあろうし、罰を与える必要もあるだろう。物理的な力は、それ自体善を創り出すことは出来ないかもしれないが、悪しきものを妨げる力はある。また罰といったものも必ずしもはじめのうちは肉体的に痛みを感じさせる必要はないので、不従順の性質がいかなるものであるか、またどれほど繰り返されるかによって、たとえばはじめは子どもの好きな事を何かさせないでおく程度にしておき、だんだん愛情の証拠を見せないでおくところにまで厳しさを増していきのがよい。例えば、繊細な性質の子どもがいう事を聞かない時には、母の懐から引き離し父の手を求めても差し出してやらず、寝る前の口付けもしてやらぬ等々が大いに罰として効果を発する。つまり、愛を示してやることで子どもは親に頼るようになるのであるが、この親に頼る気持ちはそのまま しつけをする時子どもを扱いやすくするのにも役立つ。

我々は従順を自らの意思をある正当な他者の意思に従わせることと定義した。


           総合教育 授業百科   1887年     by魂の殺人

JWICより 「家庭不和」にいたる教理のひな型   
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by hanamizukidayo | 2008-03-26 15:05

9章  幼い時から子供を訓練する

・・・膨大な学習能力が働くのは誕生した瞬間からです。
(略)
子供は多くの概念を学ばねばなりません。言語の概念そのものも赤ちゃんの頭にしっかりと植え付けなければなりません。

    
 始めるのは今です!
使途パウロは、同労者テモテにあてた手紙の中で、テモテが「幼い時から」聖なる書物を知っていたと述べました。幼い子供は知識欲に燃えているものだという事を知る親は賢明です。赤ちゃんは全身を目や耳にしてよく観察しています。親がそれに気づいていてもいなくても、せっせと情報を取り入れて整理収集し、増し加え、結論を下しています。実際親が注意していないと、子供はちょっとの間に自分の望むとおりに見事に親を操る手を知るようになるかもしれません。ですから神のみ言葉聖書にある 「少年をその道に従って訓練しなさい。年老いても、彼はそれからそれれていくことはないであろう」という忠告は、 赤ちゃんが生まれた時から 始まります(箴言22:6)いうまでもなく、最初は愛をこめて十分に世話をし、愛情を注いで愛について教えます。しかし、それと共に、必要に応じて悪いところを優しい中にも毅然として正すこともしなければなりません

幼児に話す時には"赤ちゃん言葉"を使わずにわかりやすい大人の言葉で話します。子供にはそういう言葉を学ばせたいものです


                                 by家族生活を幸福なものにする
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by hanamizukidayo | 2008-03-26 14:25

教会  -  イースーター礼拝

昨日は教会のイースター(復活節)礼拝でした。

JWの記念式、今年は22日だったようですが、見事な満月を
見るといやでもJWに関わった年月のあれこれを思い出して
しまいます。

JWを辞めても依然としてニサン14日は「特別な日」だという
思いに縛られていたことに今頃、気がつきました。
この時期は記念式に誘われることとはまた別の意味で、
毎年気持ちが沈みがちでした。

イエスさまの受難、組織を離れても「特別な日」だという思いを
捨て切れなかったのはこれだったと思います。


不活発になってから私は家族も親しい人も記念式に招待しようとは
全く思わなくなり、式が始まる直前に会場に駆けつけ誰とも話さず
終わったらすぐ席を立つ、そうした2,3年を経て一昨年から
行くのをやめましたが、私にとってJW最後の呪縛は記念式への
こだわりでした。今年は教会で2月から6回に渡って受難節の
メッセージを聞くことができたのは幸いでした。


イースター礼拝ではマルコ16章を中心にしたメッセージを聞きました。

主イエスが罪人として刑場で亡くなった後、本来ならそのまま
罪人は放っておかれるところをアリマタヤのヨセフという有力者が
ピラトに遺体の引渡しを申し出たので、イエスの亡骸は墓に収められ
たこと。女達は(弟子の男たちは散っていた)イエス様の最後に立ち会い
お墓の場所も見届けて知っていた。そして安息日が明けてから
「墓の入口から誰が入口の石を転がしてくれるでしょうか」と話し合いながら
向かったが目を上げると石はすでに転がしてあった。そして、
墓にはイエスの亡骸が無かったので、女たちは怖くて震え上がった。
                     (マルコ16章)

弟子達にとってさえ、イエスの復活はその時点で信じがたい出来事でした。
決してきれいごとだけを見る者ではない、現実の厳しさや見過ごしやすい
自分自身の醜さをクリスチャンは見る者なのです。
そして必ず死を迎えますが、キリストの甦りによって永遠の命に移される
道が開かれましたから、主イエスが死んで復活されたこの出来事は聖書の福音です。
(↑メモを取らなかったのでうろ覚えです)



残りの者級という特別な人々を崇める「特別な式典」、それは
聖書のどこにもないJWの独善的な教理でした。確かに表向きは
キリストの死に注目させていますが、同時に油注がれた「特別」な
人々を過度に際立たせようとする偶像崇拝の儀式です。

「油注がれた特別の人々」だけが天に行き支配者となり、他の人たちは
自分たちに支配される大群衆だと思い込んだ一部の選民思想人間に
注目させるためのパンとぶどう酒を見守る式典。キリストの贖罪とセット
になっていたため、長い期間誤った教えの刷り込みから解放されていなかった
ことにやっと最近気が付きました。



昨日の礼拝には友人が来てくれました。


「もったいぶった話し方でないところが
とても良かった。行って良かった」と
夜、メールが届きました。

思うところは一緒です。
もったいぶった話が得意で、特別の人種のように振る舞い
世の中の人たちを裁き、仲間でさえ自分たちの基準にかなわないと
平然と裁いた会衆の指導者たち。

会衆に痛めつけられ傷ついた人たちが
主イエスさまの本当のメッセージによって
心の安らぎと霊的な傷が回復できますように。



      。。。。。。。。。。。。。。。

先週から花粉症で、毎日クシャミとハナミズ・目のかゆみに
参っています。今年は予報通り花粉の量が多いですね。
去年は比較的楽だったのでそろそろ体質が変わって治ったかなと
期待していたけれど、甘かったようですw

薬を飲み飲み動いていますが、休日に幾ら寝ても疲れがとれません。
体調が良くないと考えもまとまらないので、更新も滞ってしまいがちです。
また、よくいくサイトには目を通しているのですが、なかなかコメントできなくてごめんなさい。
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by hanamizukidayo | 2008-03-24 01:42 | 宗教

  えんえんと・・・

延々と「家族生活」1979年版とアリス・ミラーの本を"丸写し"してきました。
JWの従順教育の深刻な被害と、組織の本当の狙いは何だったのか、
その鍵を解くのが「魂の殺人」だったと確信して、辞めて数年経った今やっと
整理してみよう気持ちになりました。

(読んでくださっているみなさんはJwの独善的な教えや欺瞞の数々に、
とっくに気が付いておられると思います)


きっかけ①はひよかさんの2月以降の記事でした
blog.livedoor.jp/hiyo25mekemeke/?blog_id=1735815

②キティさんの記事にも深く共感しました。  pinkkitty2.blog107.fc2.com/

キティさんの記事より
私は今後も、ムチの問題を多くの元JWや方と考えていきたいと思っています。
それは、
(1)既に被害を受けてしまった人達の気持ちをフォローする(し合う)
(2)今後被害者を出さない
(3)決して過去のこととしてうやむやにしない(JWに責任逃れさせない、風化させない)
という3つの事を行っていきたいからです。

ただ、1人では何もできませんので、立場を問わず多くの方にご協力をお願いしたいと思います。
どうか宜しくお願い致します




③子どもたちの可能性の開花に情熱的なウイズダムさんの英語教室運営&JW教育の疑問と真の愛への探究心、それらの記事も共感しながら考えさせられました。いつだったか、ご本人は「宗教オタクなんですよー」と笑ってらしたけど本物を求める嗅覚の凄い方です。   
 blog.livedoor.jp/wisdom" target="_blank">blog.livedoor.jp/wisdom1196305845" target="_blank"> blog.livedoor.jp/wisdom


JW組織が「子どもの訓練」と称し、聖書的な詭弁を使って子どもたちの人生を搾取する方針は
終末ハルマゲドン思想が変更にならない限り、恐らくあり得ないことでしょう。
70年、80年代のような過激な鞭体罰は公にも私的にも影を潜めたかもしれませんが、従順教育の躾を受けた世代は自らの子ども時代の苦しみに本当の意味で気が付かなければ、もしかすると自分の子どもに対して過去に負わされた傷を投影する可能性があります。

クラウディア・ブラックという人の「わたしは親のようになりたくない」という本があります。わたしも、親のようになりたくないと思いながら子育てをしていたせいか、家族生活の内容は最初、理想的な教育だと思いました。そして厳格に育てた自分の親が本当は「いい親だったんだ」と錯覚してしまった時期もありました。(今は親も私もすっかり変わり、心から仲良くやっています)
自分の子ども時代のような思いはにさせたくないと思っていたのに、やってしまったことは結局もっと悪いものでした。


「会衆のみんなはひどかったけど
私はそこまでしなかったわ」

と言える人がわたしは正直羨ましいです。



    「家族生活」と闇教育・・
ここまで読んでくださったみなさま、ありがとうございました。
決して気分よく読める内容ではなかったと思います。
うんざりしたり、目をそらしたくなった方もおられたとは
思いますが、お付き合い頂いたこと・・感謝しています。

大まかではありましたが家族生活は第8章まで写しました。
本当のところ、これまでのものはまだホンの触りに過ぎず
以下のように本格的かつ具体的な体罰奨励となっています。

第12章のタイトル、気になります。JWの子どもたちは愛という美徳で装った
理不尽な懲らしめと偏った宗教教育を受けた挙句、
「親の心」まで喜ばせなければならない(命令)とは、
どこまで強欲な宗教なのでしょう。




9章  幼い時から訓練する

10章 愛をもって懲らしめる価値

11章 意思疎通の道を開いておく

12章 親の心を喜ばせる

13章 老後の生活

14章 とこしえの命のために、
          家族ぐるみで準備を進める

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by hanamizukidayo | 2008-03-18 17:03

ゆーじさんのサイト

【エホバの証人の子供達への懲らしめ教育】

http://buta.exjw2.org/muchi_3.htm




昨夜ゆーじさんのサイトの二世鞭問題をふと思い出したので
読み直してみました。

いつ頃からどのように組織ぐるみで子どもに対する体罰が始まったのか
その経過を詳細に知ることができる貴重な資料です。

ネJw関係のネットを初めて見たのが今から5年ほど前でしたが、
すでにこのような分析をされていた管理人さんの鋭い視点や
正義感に改めて感銘を受けました。

     ゆーじさん、ありがとうございました。
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by hanamizukidayo | 2008-03-18 00:20

3/9"父親と母親はお互いにパートナー"の追記      (闇教育より)



子どもが揺りかごの中にいる時からあらゆる方法で甘やかされたりチヤホヤしたりするのは猫可愛がりではないだろうか?

この世に生まれた最初の日から秩序を守り

食餌を楽しむのも定まった時間を守るようにし、そうして規則正しさ、忍耐さらには - 人間としての幸福の基を築いてやる代わりに、猫かわいがりは赤ん坊の喚き声の言うままになる〔 ・・・ 〕


猫かわいがりは厳しくできないし、禁ずることができない。子どもの真の幸福を思って"いけない"ということができないのだ。それはただ"はい、はい"としか言えず結局子どもを害することになる。盲目的な優しさやら、自然な衝動やらの言うなりになり、"いけない"と言いながら許してやり、罰する時はいい加減で、禁じなければいけないことでも成り行きに任せてしまう。猫かわいがりには教育目標に向かう明確な意識が欠けている。それは近視眼的なのだ。子ども達によかれと思ってしている事ではあるが、しかしその手段は間違っている。その時の気分の赴くままにいろいろなことをやってしまい、落ち着いて熟考し、その考えに従って何かをすることがないのだ。子どもを導くのではなくかえって子どもに引き回される。真の意味で落ち着いて子どもに対抗できる力がなく、子どもが口答えをしたり、わがままを言ったり、逆らったり、あるいは逆に頼んだり、おべっかを使ったり、涙を見せたりすると、この幼い暴君の言いなりになってしまう。

猫かわいがりというのは、真の愛の対極にあるものなので、真の愛は必要とあらば罰することもためらいはしない。聖書は語っている。
わが子を愛する人は懲らしめを惜しまず。後にその子は親の慰めとなる。(シラの書30:9)
またもう一つの箇所でも 「子をちやほやすればあなたは子を恐れるようになる。子と戯れると、子に負かされる」と言われている。(シラの書 30:10)

猫かわいがりに育てられた子どもたちは、両親に対してひどい無作法を働くようになる。
                       A.マティアス   1902年より





我々がより高い叡智と計り知れない神の愛に対する絶対の信仰の中で動かねばならぬとちょうど同じように、子どもも、両親と教師の叡智に自らの行為を全く従わせ、そのようにして天なる神に対する服従を前もって学ばねばならぬ。この完成された配置を換えようとする者は不遜にも信仰に替えるに知ったかぶりの疑惑を持ってするのであり同時に、子どもの本性をも見損なっているのだ。子どもには信仰が必要なのである。[…・・・] 


子どもは強い者に服従したがるものだ。心に服従があれば愛もまた遠からずと詩人も言っているではないか。
家の中では弱い母親ほど博愛主義の立場に立ちたがるものであって、それに対して父親は容赦なく即刻服従を命ずる。だからこそ母親というものは自分の子どもにいいように牛耳られることが多いのであり、だからこそ、父親は深く敬われ、家族全体の頭であり、家族全体の精神が父親によって舵を取られているのだ。  L.ケルナー  1852年より   

                                
       by 魂の殺人

一言だけ・・
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by hanamizukidayo | 2008-03-14 09:31