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38年待たされた人


   へブル語でベテスダと呼ばれる池があって・・
   そこに、38年もの間、病気にかかっていた人がいた

               ヨハネ5:1,5




ベテセダは、憐れみの池という意味があります。
この池に真っ先に飛び込む人がどんな病気でも癒されるという噂があります。ですから大勢の人が集まってきたのです。
うまい話がありますと、人は集まってきます。その中でも、少しでも身体に自由がきく人が勝つのです。
障害者、高齢者、病人の中にも競争原理は働くのです。
差別があるのです。

いわゆる健常者が障害者を差別するのなら、 まだ話は分かります。

理解して貰えるように努めることはできます。

でも、病人が病人を差別するようでは、もはや話になりません。
この意味で、ベテスダは「憐れみの家」どころか、「競争原理の家、切捨ての家」と呼んだほうがよいかもしれません。

そこに主イエス様が「よくなりたいのか」と言われます。

この言葉は、非常に酷な言葉だと言われます。
聖書は、『彼が臥せっているのを見、それがもう長い事を知って』と記しています。
彼を知っているからこそ、『なおりたいのか』という慎重な言葉を選ばれたのだと思います。

私たちが人に忠告したり、励ましたりする時に、よく相手の状況を見誤ってする時があります。
自分の弱さがありながら、相手の弱さを裁いてしまうことがよくあるのです。


病人は『主よ。よくなりたいです』と答えることができませんでした。
ここにこの人の問題があるのです。
『主よ。私には、水がかき回された時、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、もう他の人が先に降りていくのです』

悲惨です。
これが果たしてグチと言えるでしょうか。
これが38年間の現実として、彼の身に染み付いてしまっていたのです。
誰が彼のみを責めることができますか。

主イエスのみがお責めになることができる。
しかしお責めにならない。


サルトルは  「地獄とは、他人のことである」  と言葉を残していますが、
驚くことはない、私たち自身がその人にとって

  地獄  とも  隣人  ともなり得るのです。

38年の病という重荷に加えて、他人という「地獄」を背負って生きているこの人に向かって、
主イエス様は
『起きて、床を取り上げて歩き(続け)なさい』と言われます。
『私が背負って一緒に行こう』とは言われませんでした。男はそれを期待していたのかもしれませんが・・

主イエス様は「ベテスダには救いはないよ。」と、

お前の地獄からお前を救い出すために、私は十字架にかかったのだ と、

今日も私たちに語り続けています。

                  
                      教会メッセージより

by hanamizukidayo | 2008-03-01 11:32 | 宗教