・開花時期は、12/15頃~翌4/20頃。
早咲きものは正月前にはすでに咲き出している。
(「日本水仙」「房咲き水仙」などの 早咲き系は12月から2月頃に開花)。
・地中海沿岸原産。平安末期に中国から渡来。
・漢名の「水仙」を音読みして「すいせん」になった。
漢名は「仙人は、天にあるを天仙、
地にあるを地仙、水にあるを水仙」という
中国の古典から。
きれいな花の姿と芳香がまるで「仙人」の
ようなところから命名された。
・学名でもある英名「ナルシサス」はギリシャ
神話の美少年の名前で、泉に映った自分の
姿に恋をして毎日見つめ続けたら
いつのまにか1本の花になってしまった。
”ナルシスト”の名はここからくる。
・いろいろな種類がある。
「日本水仙(にほんずいせん)」が最もポピュラー。
・別名 「雪中花(せっちゅうか)」、
雪の中でも春の訪れを告げるので。
・花言葉は
「思い出、記念」(房咲水仙)
「持って生まれた素質」
(ラッパ水仙)
「詩人の心」(口紅水仙)
「思い出」(糸水仙)
「優しい追憶 」(笛吹水仙)
「田園の幸福 」(八重咲水仙)
「其(そ)のにほひ 桃より白し 水仙花」
松尾芭蕉(まつおばしょう)
http://www.hana300.com/suisen.html <水仙より引用>・・・・・・・・・・・・・・
子供の頃は寒暖が厳しかった。南九州とは言え、冬には霜柱が立ち、水溜りに張った氷を踏みながら学校に通ったものだ。軒下には氷柱が下がり、朝起きて障紙板のガラス越しに、庭木にこんもりと積もった雪景色がまぶしく映えた冬も珍しくはなかったような記憶がある。
正月頃から一番寒い2月頃にかけて、実家の庭の片隅にひっそりと咲いていた水仙の花。
ありふれていて、地味で、淋しそうで、子供のころは好きじゃなかった。
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W妹は水仙が一番好きだとよく言っていたが、私は子供時代の思い出がまとわり付く、そんな
水仙のどこがよいのか理解できなかった。そういえば、水仙の名所によく出かけるという妹の話を、「物好きね~」と言いながら、笑って聞き流したこともある。
1週間ほど前の父の納骨の日は、時雨日和が続いていたのに、しばらくぶりに晴れ上がったと喜びあったが、本当にぽかぽかと暖かくて、まるで春のような日差しに恵まれた1日だった。
お骨になった父には、昼過ぎまで、日当たりのよい縁側でひなたぼっこして「居て」貰い、
父を囲むように座り込んでみんなと雑談をしたり、翌日の法要の支度を整えたりして過ごした。
そして午後1時、叔父と近くに住む父の従姉妹がそろったところで、一緒にお墓に向かった。
お花は前もって飾って置いた。弟夫婦がお骨を抱いて車で出発。
私や母その他数人はのんびりと、小高い山にある墓地に向かって散歩気分で陽気に歩いた。
納骨に立ち会うのは、生まれて初めての経験だった。私が10歳の頃祖母が死んだ。そのお葬式のことは良く覚えている。
当時はまだ土葬だった。土葬にされて、もし生き返ったら、どんなに恐怖だろうと、子供の頃は
お葬式そのものが非常に恐かった。また数ヶ月経つと、棺おけが腐る。そのために土がぼこんと凹む。病院ではなく自分の家の畳で死んでいった時代であり、人間の死というものを、子供心ながらリアルに焼きついて育った。
それが当たり前の時代、また環境だった。
父のお骨は日当たりのよい墓地の真ん中前列に収まった。隣の墓には、半年ほど前に先に
逝った親戚の叔父が・・・・その連れ合いだった叔母は、目を赤くしながら・「お互いに寂しくなくていいね。よかったね」と、双方に語りかけていた。
小高い丘から、500mも離れていない場所にある父の自分の家が見下ろせる。
父の好きな花は水仙だと知ったのは、この日だった。墓地の前には、父が自分で植えたという日本水仙の花が可憐に、でもやはりどこかひっそりと柔らかい日差しの中咲いていた。、
まるで、父のために咲いて待っていてくれたような、気がした。